遣隋使
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遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(?國)が技術や制度を学ぶためにに派遣した朝貢使の事を言う。600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。608年の遣隋使で天皇という君主号が使われたと『日本書紀』は記すが、懐疑的な意見が多い。なお、日本という名称が使用されたのは702年遣唐使からである。

大阪住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て瀬戸内海筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。

倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での新羅との関係を有利にするという、影響力維持の意図もあった。

ただし、倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない(したがって臣下ではない)外交原則とした。これは次の遣唐使の派遣にも引き継がれた[1]
第一回(600年)

この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はないが、東アジア諸国では末尾の遣使だった[2]。『隋書』「東夷傳?國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。

「開皇二十年 ?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言?王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

開皇二十年、?王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥(おおきみ、あめきみ)と号(ごう)し、使いを遣わして闕(みかど)に詣(まい)らしむ。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、?王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時に、出でて政(まつりごと)を聴くに跏趺(かふ)して坐す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて、我が弟に委(ゆだ)ぬと云う。高祖曰く、此れ太(はなはだ)義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。[3]

開皇二十年に、大王(おおきみ)又は天王(あめきみ)と号する倭王アメノタラシヒコは、使者を遣わして帝に詣らせた。高祖が役人を通じて倭国の風俗を尋ねさせたところ、使者は「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、政(まつりごと)を聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます。」と答えた。高祖は「それは甚だ不合理(あるいは不義理)であるから改めるよう」訓令した。

?王(通説では?は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、より垂下した(天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩雞弥はオホキミ又はアメキミで、大王又は天王とされる。『新唐書』では、用明天皇(在位585年-587年)が多利思比孤であるとしているが合わない[4]。開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この大王が誰かについては、推古天皇厩戸王蘇我馬子など意見が分かれている[5]

この時派遣された使者に対し、高祖は所司(役人)を通じて?國の風俗を尋ねさせた。使者は?王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩?彌」で、「天をもって兄とし、日をもって弟とする。いまだ夜が明ける前に出て跏趺して政治を聴き、日が出ると仕事を止めて弟に委ねる」と述べている。ところが、高祖からみると、?國の政治のあり方が道理に外れたものだと納得できず、改めるよう訓令したというのである。

これが国辱的な出来事だとして、日本書紀から隋使の事実そのものが、除外されたという。だが、その後603年(推古11年)冠位十二階や、604年十七条憲法の制定など隋風の政治改革が行われ、603年小墾田宮も外交使節の歓待を意識して新造されて、次の遣隋使派遣がされる[5]
第二回(607年)

第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って派遣されたと記されている。

日本の王から隋帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳?國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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