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第一次遣独潜水艦作戦に使用された伊号第三十潜水艦第二次遣独潜水艦作戦に使用された伊号第八潜水艦
遣独潜水艦作戦(けんどくせんすいかんさくせん)とは、第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器やその部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等日独両国の人材の輸送を行った日本海軍艦艇による数次にわたる作戦を指す。
なお、本項ではこれに対応するドイツと、同じく日本と日独伊三国同盟で同盟関係にあったイタリアからの遣日潜水艦作戦についても述べる。 日本とドイツは1936年(昭和11年)に日独防共協定、その後も日独伊三国同盟を結んで以来同盟関係にあったが、1941年6月の独ソ開戦によりシベリア鉄道経由の同盟国日本からドイツへの陸上連絡路が途絶し、さらに同年12月の日本と英米などとの開戦によって海上船舶による連絡も困難となった。 当初はドイツ側も生ゴムや錫、モリブデン、ボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために海上封鎖突破船をインド洋経由で日本の占領する東南アジア方面に送ったが、大西洋のアフリカ沿岸を拠点に活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。 このため、ドイツは潜水艦による物資輸送を提案した。さらにドイツ側は空母の設計図や水上飛行艇、酸素魚雷や無気泡発射管などの最新の軍事技術情報を日本から、日本側からもウルツブルク・レーダー技術、ジェットエンジン、ロケットエンジン、暗号機等の最新の軍事技術情報をドイツから入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。 基本的なルートは、日本?マラッカ海峡(ペナン及び昭南、またはジャワ島ジャカルタ)?インド洋?マダガスカル沖?喜望峰沖(いわゆるローリング・フォーティーズの難所)?東部大西洋?ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地(Uボート・ブンカー)との往復であった。ペナンの日本海軍基地(1942年) なお1942年当時は、東南アジアからインド洋にかけての地域は日本海軍の制海権下にあったものの、東部大西洋からヨーロッパにかけてはドイツ軍の手は及ばず、さらにイギリス海軍の厳重な対潜哨戒網が敷かれていたこともあり、大西洋上のルートや入港先についてはたびたび変更されている。とくに1943年以降は、ドイツ軍は大西洋?ヨーロッパの制海権をほとんど連合軍に奪われ、日本が制海権を握っていたインド洋以東のアジア海域にもイギリスやアメリカなどの連合軍による通商破壊が活発になっていた。 こうしたことにより、全5回の遣独作戦中、はじめ2回は往復に成功したものの後半の3回は途中で撃沈されている。ただし往復に成功した2回のうちでも第一次遣独艦は帰路に立ち寄った日本占領下の昭南入港時に暗号通信の不徹底から味方の機雷に触雷・沈没している。 沈没した艦内から積荷は回収されたが、期待されたウルツブルク・レーダーの器材や設計図面などは使用に耐えなかった。従って物資輸送を完全に成功させたのは第二次遣独艦のみであった。この第二次遣独艦は帰路、日英居留民を運ぶ戦時交換船を誤って攻撃しそうになったが、直前に気づき回避するという事態もあった[1]。
概要
遣独潜水艦作戦
第一次遣独艦)。復路の10月13日、シンガポール港にて自軍の機雷(同港占領時に故意に残された英軍のものという説もある)に触れ沈没。