遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と同等に交易・外交をしていたと記して対等な姿勢をとろうとしたが、唐の認識として朝貢国として扱い[1]『旧唐書』や『新唐書』の記述では、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。中国大陸では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。
舒明天皇2年(630年)に始まり、以降十数回にわたって200年以上の間、遣唐使を派遣した。最終は寛平6年(894年)に56年ぶりに使節派遣の再開が計画されたが、907年に唐が滅ぶと、そのまま消滅する形となった[2]。
遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、政治家・官僚・仏僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給した。山上憶良(歌人)、吉備真備(右大臣)、最澄(天台宗開祖)、空海(真言宗開祖)などが名高い。 唐の先進的な技術や政治制度[注釈 1]や文化、ならびに仏典等の収集が目的とされた。白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった[4]。遣唐使は日本からは原材料の朝貢品を献上し、唐皇帝から質量の高い返礼品の工芸品や絹織物などが回賜として下賜されるうまみのある公貿易で、物品は正倉院にも残る。それだけでは需要に不足し、私貿易は許可が必要で市場出入りも制限されていたが、遣唐使一行は調達の努力をしていた[5]。旧唐書倭国伝には、日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、帰国していったと言う話が残されている[6]。 遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。本来、朝貢は唐の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。この歳貢を免ずる措置は、倭国に唐への歳貢義務があることが前提で、唐国は倭国を冊封する国家関係を当然のものと考えていた、と指摘している[7]。仏教のシルクロード伝播 なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。遣唐使の頃には自らを天皇とし、唐の皇帝を天子と呼んでいる(『日本書紀』)が、唐の側の記録においては初回の送使高表仁を除き、唐を対等の国家として扱ったらしい記述は存在せず、天皇号は『新唐書』日本伝に「神武が天皇を号とした」と記され、日本の王が国内で用いる称号という認識である。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、日本の遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争い、日本が新羅より上の席次という事を唐に認めさせるという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、倭の五王が中国大陸王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の天皇は唐王朝から冊封を受けていない。 その後、唐僧・維躅
目的
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。 回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。 他に14回、15回、16回、18回説がある。 遣唐使派遣一覧次数出発帰国使節その他の派遣者船数備考
回数
12回説:藤家禮之助
20回説:東野治之、王勇
1舒明2年
(630年)舒明4年
(632年)犬上御田鍬(大使)薬師恵日(副使)犬上御田鍬は614年に遣隋使として渡航経験がある。朝鮮半島経由の北路を通ったとされる。一行は631年に皇帝太宗と謁見した。『旧唐書』に拠れば太宗はその道中の遠いことに同情し、以降の毎年の入貢を止めさせた[8]。帰国の際、唐の送使高表仁が同行来日し、僧旻・勝鳥養・霊雲らも同行帰国した。新羅の送使も帰国に同行しているため、朝鮮半島経由コースであったと推測される。8月に対馬に帰着。高表仁らは10月4日に難波津に着き、翌年1月26日に帰国した。高表仁は滞在中に格式などと推定される揉め事により、親書を読まずに帰国し、帰国後に咎められている[9]。『日本書紀』でも唐使を難波の館に迎えて神酒を賜った後、入京の記事がなくいきなり帰国の記事があり、トラブルの存在が窺われる。
2白雉4年
(653年)白雉5年
(654年)第1船・吉士長丹(大使)・吉士駒(副使)/第2船・高田根麻呂(大使)・掃守小麻呂(副使)道昭・定恵・道観(のちの粟田真人)・安達(中臣大嶋の兄)・道福・義向・道光(以上留学僧)・坂合部磐積(石積)(学生)・巨勢薬(学生)・氷老人(学生)・韓智興?・趙元宝?2第1船は121人、第2船は120人。出航より一月半後の7月、第2船は往途の薩摩沖で遭難した。よって往路は南島コースであったと考えられる。高田根麻呂ら100余名が死亡または行方不明。生き残った5人は破材一枚に捕まり6日間の漂流の後に甑島列島の上甑島に漂着し、島で竹を伐採して筏を作り帰還した。生還した門部金が褒賞を受けた。[10]第1船は唐に到着し皇帝に拝謁。654年7月に新羅・百済の送使と共に帰還したため、復路は朝鮮半島経由コースだったと考えられる。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『日本書紀』巻第二十五に記されている[11]。
3白雉5年
(654年)斉明元年
(655年)高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使)中臣間人老(判官)・置始大伯(判官)・書麻呂(判官)・田辺史鳥
4斉明5年
(659年)斉明7年
(661年)坂合部磐鍬(石布)(大使)・津守吉祥(副使)伊吉博徳、東漢長阿利麻、坂合部稲積、韓智興、東漢草足嶋、西漢大麻呂2659年7月3日に出航。8月11日に博多を出て江南路を選択した。百済情勢が緊張しており、北路を使う選択はできなかったと推測される。第2船の副使・津守吉祥らは10月1日に越州(浙江省紹興)に着き、駅馬で長安に入り洛陽にて皇帝高宗に拝謁。大和朝廷の服属国民として蝦夷人男女を伴っており、皇帝に献上している。同年11月1日、冬至の儀に参加。「朝貢してくる国々の中で、倭の使節が最も勝れている」と賞賛されている。しかし一行はその後、韓智興の従者(東漢草足嶋か西漢大麻呂か?)による讒言があり、また唐と百済の戦役の都合などにより暫く長安に幽閉・抑留された。韓智興は唐の政府によって、三千里の外に流罪とされた。伊吉博徳の弁明奏上と660年8月の百済滅亡により戦争が無くなったことから、同年9月12日に抑留は解かれ、一行は同19日に洛陽へ向かった。一方の第1船は往途で659年9月13日に百済の南の島に到着した。9月15日日没後、逆風で遭難し、南海の島「爾加委」(喜界島と推定される)に漂着し略奪に遭い、大使の坂合部磐鍬が殺された。東漢長阿利麻・坂合部稲積ら生き残った5人は島民の船を奪って脱出に成功し、大陸の括州(現在の浙江省麗水)に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。その後どうなっていたかは不明だが、長安の2船の一行同様、洛陽にて抑留されていたと推測される。