遠里小野
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この項目では、大阪市住吉区の地名について説明しています。堺市堺区の地名については「遠里小野町」をご覧ください。
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遠里小野
町丁
我孫子前駅
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日本
都道府県 大阪府
市町村 大阪市
住吉区
町名制定1981年(昭和56年)
面積[1]
 ? 合計0.677181469 km2
人口(2019年(令和元年)9月30日現在)[2]
 ? 合計9,399人
 ? 密度14,000人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号558-0032[3]
市外局番06(大阪MA[4]
ナンバープレートなにわ

遠里小野(おりおの)は、大阪府大阪市住吉区町名。現行行政地名は遠里小野一丁目から遠里小野七丁目。

元は摂津国住吉郡遠里小野村のみであったが、明治初期に大和川以南を和泉国大鳥郡遠里小野村として分離した。後者は現在の堺市堺区遠里小野町などに当たる。
歴史・概要

遠里小野の地名は、古代律令制度が成立する頃から記録があり、万葉集では「とほさとをの(とおさとおの)」と詠まれている(三省堂大辞林』)。一説に,かつては「ハリのオヌ」や「ウリノ」「瓜生野」(うりうの)などと呼ばれ、それが訛り、「遠里小野」(おりおの)に変わったとも言われる。南北朝時代室町幕府軍と楠木正行軍が衝突した「瓜生野の合戦」を起源とする説も存在する。

かつて中世から近世にかけては農村として栄えていたが、遠里小野遺跡の発掘調査から、古代漁具などが大量に出土したことから、漁村であったと考えられている。大和朝廷の頃は現在よりも海岸線が東にあり、この辺りに墨江津と呼ばれた港が開かれていた。また、難波京和泉国府方面を結ぶ南海道と呼ばれた官道が通っていたことから交通・物流の中継地であったと考えられている。中世以降は熊野街道集落の中央を通り、現在はあべの筋が旧集落を避けるように通っている。
菜種油発祥の地

遠里小野は、古くからの産地として知られていた。また、日本で初めて菜種油を生産したことで知られる。菜種油は江戸時代から明治時代にかけて盛んに生産・販売された。現在は菜種を栽培する農地は市街地と化し、油生産は廃れた。

当初、遠里小野における油生産はハシバミの搾油から始まった。古代から中世にかけては、朝廷が神事に用いた灯明は、すべて遠里小野で生産された油を用いたとされる。しかし山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町付近)で長木によるエゴマ油の生産が行われるようになると、生産性・品質において山崎製が優位となり、遠里小野のハシバミ油は競争力を失った。

起死回生を図るべく、遠里小野では油分の多い菜種の搾油に着手し、搾油道具の改良と相まって競争力を回復し、中世・戦国時代から平和な時代へ移り変わったこともあり需要が増大し、村は大いに潤った。
大和川付け替えによる分断

かつて、この地域の東方、河内国ではしばしば大和川が氾濫し、洪水の被害を及ぼしてきた。抜本的な解決策として、大和川の流れを北から西へ変える付け替えが行われることとなった。事前の調査によりいくつかの開削ルートが考えられたが、最終的には遠里小野村集落の南側で村を二分するルートとなった。1704年(宝永元年)に付け替えが実施され、村は二分された。現在両地は「遠里小野橋」で結ばれている。
近代以降

1871年(明治4年) 大和川以南を和泉国大鳥郡遠里小野村として分離。

1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、住吉郡墨江村大字遠里小野となる。

1896年(明治29年)4月1日 郡の統廃合により、東成郡墨江村大字遠里小野となる。

1925年(大正14年)4月1日 大阪市へ編入され、住吉区遠里小野町となる。

1930年(昭和5年) 遠里小野橋が架橋される。

1935年(昭和10年) 集落が位置する高野線以西の町名が墨江東、墨江中、墨江西となる。

1981年(昭和56年) 高野線以西も含めて「遠里小野」の現行住居表示実施。


熊野街道沿いにある大阪市編入記念碑。1925年建立。

鉄道唱歌

鉄道唱歌の第5編、関西・参宮・南海編63番にて「遠里小野の夕あらし 吹くや阿倍野の松陰に 顕家父子の社あり 忠死のあとは何方ぞ」と歌われているが、七五調に合わせて「とおさとおの」と詠まれている。
世帯数と人口

2019年(令和元年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
遠里小野一丁目686世帯1,303人
遠里小野二丁目909世帯1,840人
遠里小野三丁目907世帯1,850人
遠里小野四丁目462世帯824人
遠里小野五丁目831世帯1,590人
遠里小野六丁目596世帯1,183人
遠里小野七丁目490世帯809人
計4,881世帯9,399人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。1995年(平成7年)10,842人[5]
2000年(平成12年)10,832人[6]
2005年(平成17年)10,354人[7]
2010年(平成22年)10,134人[8]
2015年(平成27年)9,648人[9]

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。1995年(平成7年)4,511世帯[5]
2000年(平成12年)4,659世帯[6]
2005年(平成17年)4,490世帯[7]


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