遠藤聖大
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遠藤 聖大

2014年3月場所の遠藤
基礎情報
四股名遠藤 聖大
本名遠藤 聖大
生年月日 (1990-10-19) 1990年10月19日(33歳)
出身石川県鳳至郡(現:鳳珠郡穴水町
身長184.0cm
体重150.0kg
BMI44.3
所属部屋追手風部屋
得意技突っ張り、左四つ、寄り
成績
現在の番付東十両3枚目
最高位西小結
生涯戦歴480勝451敗58休(67場所)
幕内戦歴433勝439敗58休(62場所)
優勝十両優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞4回
データ
初土俵2013年3月場所
入幕2013年9月場所
趣味特になし(強いて言えばテレビ鑑賞)[1]
備考
金星7個
白鵬2個、鶴竜4個、稀勢の里1個)
2024年5月26日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

遠藤 聖大(えんどう しょうた、1990年10月19日 - )は、石川県鳳至郡(現:鳳珠郡穴水町出身で、追手風部屋所属の現役大相撲力士。本名同じ。身長184.0cm、体重150.0kg、血液型はAB型[2]。得意手は突っ張り、左四つ、寄り。最高位は西小結2018年5月場所、2019年9月場所-11月場所、 2020年3月場所、2020年9月場所)。締め込みは紫色、鮮やかな赤色、金色の3本を持っている。
来歴
相撲を始めてから高校卒業まで

幼少期の遠藤はすぐに拗ねる子で父親もそんな遠藤に礼儀や忍耐を身につけさせる目的で相撲教室に参加させた。これが遠藤の相撲人生の始まりであった[3]。穴水町相撲連盟副会長の上野勝彦は当初の印象を「周囲の子に比べて背は大きかったが、泣いてばかり。相撲は途中でやめるのではと思っていた」と話し、遠藤は現に上野を恐れて稽古を逃げたこともある。小学1年生の頃より強制されるような経緯で稽古を始めただけに、最初のうちは相撲のことを好きになれず、稽古を逃げた際には祖父の家に匿ってもらうことが多かったという。相撲が好きになったのは小学5年生の頃であり、2002年の金沢巡業で当時大関だった朝青龍に会ったことが転機となった[3][4][5]ref>遠藤 いざ秋場所 (上)朝青龍の一言で憧れ強く YOMIURI ONLINE 2013年9月13日</ref>。小学生の頃は相撲を習う傍らでバスケットボール部にも所属していたといい、本人が後年『スラムダンク』に影響されていたことや、家の前にあったゴールリングの前で毎日暗くなるまで練習していたことを話している[6]

小学校卒業後、地元の穴水町を始めとして能登地方の中学・高校の多くで相撲部が休部状態に陥っているという事情から相撲を続けるために12歳で親元を離れて金沢市に転住[3][7]。監督の家に下宿しながら、小学校時代も週7回稽古していたのと同じように、相撲ばかりの毎日を過ごした[8]金沢市立西南部中学校は遠藤が入学した当初にようやく同好会から部に昇格したばかりであった[9]

金沢西南部中2年次に行われた中部日本選抜中学生相撲大会では、中学・高校で1学年上の矢鋪光太郎(のちの栃乃里)を決勝で破り個人優勝。団体戦でも優勝を果たした。

金沢西南部中相撲部の顧問によると、明るくてユニークで華があり、運動神経抜群で勉強にも熱心であったという。握力は普通の生徒の3倍で、バスケットボールも上手で各運動部が欲しがっていたとのこと[9]

金沢学院東高校相撲部時代は団体・個人共に活躍し、3年次に高校相撲金沢大会と選抜高校相撲十和田大会でそれぞれ優勝した。3年時のインターハイ個人戦1回戦では立合いに計10分を要した[10]。以降決して「待った」をしないよう心掛けるようになった。
日大時代

高校卒業後は日本大学経済学部経済学科に進み、1年時から団体戦レギュラーとなった[4]。19歳の時には食事に訪れた店で偶然朝青龍と対面し、「いい体をしているな。プロに入るのか? 頑張れよ」と声を掛けられた。3年時の後半は怪我に苦しみ右膝の靭帯損傷により半年近くまともな稽古ができず、手術を避けながら稽古土俵の外で四股を踏むしかない時期を過ごしたが[3][11]これを乗り越えて4年次には団体戦の主将を務めた。個人戦では全日本相撲選手権大会優勝(アマチュア横綱)および国体相撲成年個人の部A優勝(国体横綱)という2つのビッグタイトルを取得した。これにより、市原孝行(後の幕内力士)以来史上2人目となる幕下10枚目格付出の資格も取得することになった[12]
入門から新入幕まで

アマチュア横綱獲得を最後にアマチュア相撲の試合は全て終わり、高校教師やプロ入りといった複数の選択肢から、同郷出身で日大の先輩でもある追手風親方(元幕内・大翔山)が師匠を務める追手風部屋に入門することを選んだ[13]2013年2月14日に記者会見を行って入門を正式表明、記者会見では日大出身者で唯一横綱となった石川県出身の輪島が目標と語った[14]同月20日日本相撲協会の理事会で幕下付出入門が承認され[15]3月2日に行われた新弟子検査も無事合格[16]。場所直前の3月3日には、前日に焼き肉をたらふくご馳走になった上に弁当三つを平らげたことで朝から苦しい思いをした中、部屋の力士達との申し合いで20勝2敗と圧倒し、さらに食べ過ぎによる体調不良があったとはいえ「70?80%の力で稽古しました」と豪語してみせた[17]。同年3月場所、本名の「遠藤」を四股名として初土俵を踏んだ。

初土俵場所は7戦全勝優勝で所要1場所での新十両を目標としていたが[18]、3番相撲(6日目)で祥鳳突き落としで敗れてプロ初黒星となった。初黒星を喫した直後は「気持ちの切り替えが大事」と語っていたが[19]、さらに4番相撲も続けて敗れたため、幕下優勝も1場所での新十両もともになくなった。その後は2番とも白星でデビュー場所は5勝2敗で終えた。

2013年5月場所は東幕下3枚目で5勝2敗の成績で終えた。5月場所後に行われた7月場所番付編成会議では新十両昇進が決まった[20]。しかしながら本人も師匠の追手風親方も「5月場所の成績では(十両への)昇進は難しいだろう」と考え、7月場所での新十両昇進を予想していなかった[注 1]。翌場所から蒼国来の番付復帰が決まっていたため成績上幕下へ陥落が確実な3人に加えて1人多く落とす必要があったが、不公平がないよう単純計算で東14枚目相当の力士を3人とも幕下へ降格させたためこのような事態となった[21]。このことから、当初は関取となってから四股名を付ける予定であったものを準備不足を理由に見送り、7月場所は本名のままで土俵に上がることになった[20]。新十両で迎えた7月場所は4日目に徳真鵬に敗れたものの、終始他を寄せ付けない圧倒的な強さで13日目に栃乃若を破り、千秋楽を待たずに2012年1月場所の千代大龍以来となる新十両での優勝を決め、千秋楽も勝って14勝1敗で終えた。新十両での14勝は1950年9月場所の米川(後の横綱朝潮)以来史上2人目、実に63年ぶりだった。9月場所では新入幕[22]。史上4人目となる十両1場所通過、幕下付出から史上最速の所要3場所での新入幕だった。勝ち続けている中で流れを変えないために四股名はまだ付けず、本名で入幕することになった[23]
入幕後
2013年

新入幕の9月場所は、初日大歓声の中、豊真将に寄り倒しで敗れ、黒星スタートとなったが、2日目の佐田の富士戦で幕内初勝利を挙げた。11日目の旭天鵬戦で勝ち越したが、12日目のコ勝龍戦で左足首を負傷。皆勤すれば三賞を受賞する可能性も場所中取り沙汰されていたが[24]、13日目の栃煌山戦で悪化させてしまい、「左足関節捻挫で約3週間の安静加療を要する見込み」との診断書を提出して14日目から途中休場した[25]。場所後の秋巡業には参加したものの、申し合いには参加しないで軽い調整に留まり[26]、さらに捻挫だけでなく剥離骨折、さらにはアキレス腱炎まで発覚したが、11月場所には出場する意向を示している[27]。11月場所では2日目の宝富士戦で左足の重傷を抱えた身ながら34秒4の長い相撲を記録する[28]など怪我を押した相撲を披露したが結局は6勝9敗に終わり入門以来初の負け越しを経験した。
2014年遠藤聖大、左側(2014年)

翌2014年1月場所は初日に翔天狼に敗れたが、その後は白星を重ね、12日目に大関琴奨菊との取組が組まれた。初土俵から所要6場所での大関戦は雅山に次ぐ2位タイのスピード記録[29]。もし勝てば長岡(のち大関・朝潮)に並び史上最速タイの6場所での大関撃破だったが、その一番では琴奨菊に何もできずに完敗[30]。翌13日目に大関特例復帰を懸けた関脇琴欧洲と対戦し見事に勝ち、三役力士から初白星を挙げ、そして自身初の幕内二桁勝利を記録した(なお琴欧洲はこの敗戦で6敗目を喫し特例復帰がなくなったため、遠藤に引導を渡された形となった)。14日目に里山に勝ち、敢闘賞の受賞が決まった。初土俵から6場所での三賞獲得は、5場所の雅山(1999年3月場所)に次ぐ、歴代2位のスピード記録である[31]。千秋楽は貴ノ岩に敗れたものの11勝4敗の好成績で場所を終えた。2014年3月場所5日目の稀勢の里戦ではザンバラ髪の力士として年6場所制となった1958年以降で初となる大関戦勝利を果たした[10]。初土俵から7場所目で大関・横綱から白星を獲得したのも2位タイの記録である[注 2]。この場所勝ち越せば年6場所制定着(1958年)以降最速タイとなる初土俵から所要7場所での新三役が確実[32]となったが14日目に8敗目を喫し、6勝9敗の成績に終わった[33]。東前頭4枚目に下がった5月場所であったが、直前の5月8日には部屋で幕下以下の力士達だけを相手としたが80番取った。2014年の時点でも関取が1日の稽古で30番を超える相撲を取ることは珍しく、異例の猛稽古となった[34]。この場所が4日目に新横綱・鶴竜を破り初金星を獲得したが、他の横綱・大関陣に勝てず、13日目に栃煌山に負けて2場所連続負け越しが決まった。14日目と千秋楽に連勝して7勝8敗と場所を終えた。7月場所は10日目に5勝5敗と星を五分にした際「あとは食べて寝るだけ」と話し[35]、千秋楽に3場所ぶりとなる勝ち越しを決めた。西前頭筆頭で臨んだ9月場所では序盤から調子が上がらず、3勝12敗と大きく負け越した。西前頭8枚目で迎えた九州場所では中日まで2勝5敗と苦戦したものの、その後8連勝とし5場所ぶりに2桁勝利を挙げた。
2015年

2015年3月場所では初日に豊ノ島に破れた後は4連勝と好調だったが、5日目の松鳳山との一番に突き落としで勝利した際、左膝半月板損傷・前十字靱帯損傷の重傷を負い休場を余儀なくされた。


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