遠藤太津朗
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えんどう たつお
遠藤 太津朗
日本侠客伝シリーズ 第10作『日本侠客伝 昇り龍』(1970年)予告編にて
本名遠藤 辰雄(えんどう たつお)
生年月日 (1928-01-30) 1928年1月30日
没年月日 (2012-07-07) 2012年7月7日(84歳没)
出生地 日本京都府京都市下京区
死没地 日本京都府京都市左京区
身長176cm
職業俳優
ジャンル映画テレビドラマ演劇
活動期間1957年 - 2010年
配偶者あり
著名な家族遠藤泰輔(長男)
主な作品
テレビドラマ
銭形平次
京都殺人案内
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遠藤 太津朗(えんどう たつお、1928年1月30日 - 2012年7月7日)は、日本俳優京都府京都市出身。本名は遠藤 辰雄(えんどう たつお)。1973年まで本名で出演。代表作は時代劇銭形平次』、テレビドラマ京都殺人案内』など。
来歴・人物

京都市下京区の生まれ。生家は製菓製造機の製造・販売業を営み、二男五女の長男。市立商務学校(現・京都市立松原中学校)を卒業後、家業を手伝いながら私立烏丸工業高校機械科夜間部に通う。少年時代から映画好きで、知人に誘われて地元青年会の演劇部に入ったことがきっかけで演劇熱が高まり、京都市の新劇の劇団に加わるが、家業を放り出して学校移動演劇や地方巡演に参加したため勘当された。[1]

1955年に新東宝ニューフェイス(スターレット)第4期に合格[脚注 1]。同期は本多一夫万里昌代三ツ矢歌子原知佐子ら40人[2]。阿修羅三剣士』(1956)、『姑娘と五人の突撃兵』(1958)、『ソ連脱出 女軍医と偽狂人』(1958)などに端役で出演。

並行して京都での新劇公演も続け、クライストの『こわれがめ』(1955)やサルトルの『狂気と天才[脚注 2]』(1959)などに出演しており、それが大阪テレビ(現朝日放送)の中西武夫プロデューサーの目に留まり、『部長刑事』に出演。それを契機に関西製作の映画・テレビ黎明期の各局のドラマに出演するようになる[1]

俳優だけで生活が出来るようになるまでは、運転手や沖仲仕などの肉体労働を中心に生計を立てねばならず苦労が続いたが、1960年代に入ると、個性的な風貌と堅実な演技力からテレビ・映画の双方で助演者として重宝がられ出演作が増え、デビューから1978年の『日本の首領・完結編』までの出演総本数は223本(本人の記録による)という売れっ子俳優になった[1]

テレビ時代劇での当たり役は、『銭形平次』第53話で藤尾純から引き継いだ平次を敵視する岡っ引きの三輪の万七役で、「万七親分」とお茶の間で親しまれた。大川橋蔵の告別式の際は、林家珍平とともに友人代表として弔辞を読んだ。

その他のテレビ時代劇では欲深で色仕掛けに弱く、悪でありながらどこか間が抜けている悪代官悪徳商人のイメージを確立した役者の1人とされる。また、数回にわたって演じた新選組局長・芹沢鴨役により、「芹沢鴨=悪役」のイメージを定着させた。

現代劇では、『京都殺人案内』での秋山捜査第一課長が当たり役となった[3]。1984年のテレビドラマ『家族ゲームII』では、ふてぶてしく豪放磊落な父親をケレン味たっぷりに演じ、意表を突いたキャスティングは好評を博した。

役柄は圧倒的に悪役が多い。商業演劇でも貴重な助演者として活躍し、大川橋蔵松平健らの多くの舞台を支えた。また、1971年には同志とともに「赤かぶ座」を結成し、年2回の自主公演を行うなど新劇への愛情は強かった[1]

1971年に京都市民映画祭助演男優賞、1978年には同映画祭特別功労賞を授与された。

2012年7月7日午前6時30分心筋梗塞の為に死去、84歳没[4]

遺作は友人・藤田まことと21年共演していた『京都殺人案内』第32作(2010年2月27日放送)であった。晩年は藤田の逝去に衝撃を受けて一切俳優活動をすることなく隠棲生活を送っていたという[5]

素顔の遠藤は極めて温厚な性格で、酒好き。若い俳優やスタッフらと酒を飲みながら熱心に語り合うことが多く、少々ホモっ気があるのかと思われるほどの文字通り膝を交えながらの歓談だったという。私生活では、1951年に熱烈な恋愛の末に結婚し二男があり、たいへんな愛妻家であった。[1]
出演
映画

海女の戦慄
(1957年、新東宝

小早川家の秋(1961年、東宝 / 宝塚映画


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