遠藤周作
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遠藤 周作
(えんどう しゅうさく)
1954年
誕生1923年3月27日
日本 東京府北豊島郡西巣鴨町
(現 東京都豊島区北大塚
死没 (1996-09-29) 1996年9月29日(73歳没)
日本 東京都新宿区信濃町 慶應義塾大学病院[1]
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
教育学士文学
最終学歴慶應義塾大学仏文科
活動期間1953年 - 1996年
ジャンル小説
随筆
文芸評論
戯曲
主題キリスト教
文学活動第三の新人
代表作

『白い人』(1955年)

海と毒薬』(1958年)

わたしが・棄てた・女』(1964年)

沈黙』(1966年)

『イエスの生涯』(1973年)

『キリストの誕生』(1978年)

』(1980年)

深い河』(1993年)

主な受賞歴

芥川龍之介賞(1955年)

新潮社文学賞(1958年)

毎日出版文化賞(1958年)

谷崎潤一郎賞(1966年)

読売文学賞(1979年)

日本芸術院賞(1979年)

野間文芸賞(1980年)

毎日芸術賞(1994年)

文化勲章(1995年)

子供遠藤龍之介(長男)
親族

遠藤常久(父)

遠藤正介(兄)

岡田幸三郎(岳父)

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遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年大正12年〉3月27日 - 1996年平成8年〉9月29日)は、日本小説家日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

12歳の時カトリック教会で受洗。評論から小説に転じ、「第三の新人」に数えられた。その後『海と毒薬』でキリスト教作家としての地位を確立。日本の精神風土とキリスト教の相克をテーマに、神の観念や罪の意識、人種問題を扱って高い評価を受けた。ユーモア小説や「狐狸庵」シリーズなどの軽妙なエッセイでも人気があった。
来歴・人物

父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。

その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。彼の悪戯として友人に対するいたずら電話がその例として挙げられる。

『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
生涯
出自

1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。

かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代鳥取池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた[2]。父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。

母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。


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