遠藤保仁
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遠藤 保仁

サッカー日本代表での遠藤保仁(2010年)
名前
愛称ヤット
カタカナエンドウ ヤスヒト
ラテン文字ENDO Yasuhito
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1980-01-28) 1980年1月28日(44歳)
出身地鹿児島県鹿児島郡桜島町(現:鹿児島市
身長178cm
体重75kg
選手情報
ポジションMFAMCMVOL
利き足右足
ユース
1995-1997鹿児島実業高等学校
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1998横浜フリューゲルス 16 (1)
1999-2000京都パープルサンガ 53 (9)
2001-2021ガンバ大阪 607 (98)
2020-2021→ジュビロ磐田(loan) 50 (5)
2022-2023ジュビロ磐田 52 (0)
通算778 (113)
代表歴2
1998-1999 日本 U-2011 (1)
1999 日本 U-237 (0)
2002-2015[1] 日本152 (15)

獲得メダル

男子サッカー
 日本
AFCアジアカップ
2004 中国
2011 カタール


1. 国内リーグ戦に限る。2023年11月12日現在。
2. 2015年1月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

遠藤 保仁(えんどう やすひと、1980年1月28日 - )は、鹿児島県鹿児島郡桜島町(現:鹿児島市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。現在はガンバ大阪のコーチを務める。

実兄の遠藤彰弘も元プロサッカー選手。日本代表国際Aマッチ出場数最多記録保持者[2]。2009年アジア年間最優秀選手。2014年JリーグMVP。また、Jリーグではアシストの統計をとっていないため、公式記録ではないが、2018年シーズン終了時点での通算Jリーグ最多アシストを記録している[3]
来歴
プロ入り前

鹿児島県鹿児島市に三人兄弟の三男として生まれ、6つ年上の長男・拓哉と4つ年上の次男・彰弘に影響され、物心ついた頃から自宅の庭でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップのビデオを見ては、気に入ったプレーを真似していたという[4]鹿児島実業高等学校では1年生時の1995年高校選手権優勝。2年生時の1996年には高円宮杯優勝、高校選手権では準々決勝でPK戦で敗れたものの大会優秀選手に選ばれ、U-18日本代表にも選出された。また、2年時には当時鹿児島実業サッカー部を指導していたブラジル人コーチのジョゼ・カルロスの勧めで1カ月ブラジルに短期留学し、サンパウロ州のECサンベントの練習に参加した[5]
横浜フリューゲルス

高校卒業後の1998年横浜フリューゲルスへ加入。監督のカルロス・レシャックから才能を見いだされ、リーグ開幕戦の横浜マリノス戦でいきなりプロデビューを果たす。8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点を挙げ、1年目でリーグ戦16試合に出場するなど順調な滑り出しを果たした。
京都パープルサンガ

しかし、同年限りでクラブが消滅したため、手島和希大島秀夫辻本茂輝ら他の新人選手とともに1999年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)へ移籍。当時のチームメイトには三浦知良パク・チソン松井大輔等がいた。京都ではレギュラーに定着するも、翌2000年にチームは年間15位となりJ2降格となった。
ガンバ大阪

2001年ガンバ大阪に完全移籍。翌2002年に監督に就任した西野朗の下、攻撃的なスタイルを標榜するチームの中心選手になり、移籍3年目の2003年に初めてJリーグベストイレブンを受賞する。2005年のナビスコカップ決勝のジェフユナイテッド千葉とのPK戦では立石智紀相手にプロ入り以来初めてPKを失敗してナビスコカップ優勝を逃すも[6]、この年自身初のシーズン2桁得点を記録し、リーグ最終節川崎フロンターレ戦では、PKを決めてG大阪にとって初タイトルとなるJリーグ優勝に貢献し、自身にとっても初となるJリーグ優勝を経験

2006年からは、二川孝広橋本英郎に加えこの年新加入した明神智和とで構成された抜群のパスワークで相手を圧倒する中盤は「黄金の中盤」と称され[7]、G大阪の攻撃陣を牽引していたが、10月に日本代表でのインド遠征中に発熱してから体調が戻らず、後にウイルス性肝炎と判明したことで[8]、シーズン終盤は1ヶ月以上の戦線離脱を余儀なくされた。12月2日に行われたリーグ最終節の浦和レッズ戦で復帰するも、チームは敗れリーグ連覇を逃した。2007年はシーズン通して大きな体調不良もなく、リーグ戦全34試合にフル出場し、ナビスコカップ優勝にも貢献。

しかし、2008年6月末にウイルス性感染症により、再び1ヶ月以上の離脱を余儀なくされ[9]オーバーエイジ枠でのメンバー入りが確実視されていた北京オリンピック日本代表を辞退することとなった[10]。さらに遠藤離脱後、G大阪はリーグ戦で不振に陥った。それでも、復帰後のACLではアシストを連発し、特に準決勝の浦和戦では2戦合計2ゴール2アシストと全得点に絡む活躍でクラブ初のアジア制覇に貢献し、大会MVPを受賞した。同年11月には、イングランド2部プリマス・アーガイルFCからオファーを受けるが、家族のことなどを考慮してG大阪に残留した。


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