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遠江国
■-遠江国
■-東海道
別称遠州(えんしゅう)
所属東海道
相当領域静岡県の大井川以西
諸元
国力上国
距離中国
郡・郷数13郡96郷
国内主要施設
遠江国府静岡県磐田市
遠江国分寺静岡県磐田市(遠江国分寺跡)
遠江国分尼寺(未詳)
一宮小国神社(静岡県周智郡森町)
事任八幡宮(静岡県掛川市)
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遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。現在の静岡県西部、及び中部の一部(大井川の旧流である栃山川以西)。
現代の遠州地方については遠江を参照。
「遠江」の名称と由来六十余州名所図会「濱名之湖 堀江舘山寺 引佐之細江」
古くは「遠淡海国(とほつあはうみのくに)」と表記された[1]。また飛鳥京跡苑池遺構から出土した木簡には「遠水海国」という表記がされている[2]。「遠淡海」とは都(当時の奈良)から見て遠くにある淡水湖という意味であり、近江国の「近淡海(ちかつあはうみ)」の琵琶湖と対比される。この「遠淡海」に関しては、一般的に浜名湖を指すとされるが、一方国府のある磐田湖(大之浦)を指すとする説もある[3]。ただし大之浦は名称の通り浦であり、淡水湖でないことに留意される。(当時の浜名湖は淡水湖であったが、明応7年(1498年)に起きた明応地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。) 明治維新直前の領域は、現在の静岡県の下記の区域に相当する。
大池(大之浦の名残)
領域
焼津市の南部(下小杉・上小杉以南)[4]
藤枝市の南部[4]
島田市の西部(大井川以西)
榛原郡川根本町の西部(大井川以西)
榛原郡吉田町
牧之原市
御前崎市
菊川市
掛川市
袋井市
磐田市
周智郡森町
浜松市
湖西市
沿革
前史が神武天皇朝に素賀国造に任命されたと『先代旧事本紀』「国造本紀」に見える。古墳時代には景行天皇(倭建命)の東国巡行に伴って物部氏一族の者が次々に国造に任命され、次代の成務天皇朝に印岐美命
それぞれの治所は遠淡海国が磐田郡、久努国が山名郡(袋井市)、素賀国が佐野郡(掛川市)とされるが、『先代旧事本紀』には久努直(久努国造家)と佐夜直は同祖としており、素賀国造とは別族であることに留意される。また菊川流域の城飼郡には素賀国造の祖神とされる天之菩卑能命や建比良鳥命を祀る式内社や、古墳時代前期から中期の前方後円墳が存在する。 7世紀に、地方豪族であった遠淡海国造・久努国造・素賀国造の領域を合併して遠江国が設置された。 国府所在地は、中世に「見付」と呼ばれたところで、現在の磐田市にあった。 東隣の駿河国との境は大井川であった。奈良時代には、大井川の流路が現在より北を流れていたため、今の栃山川以南が遠江国に含まれていた。具体的には島田市の南部・藤枝市の南部、および焼津市の南部で合併前の大井川町である[5]。大井川町の全域は、明治初期まで遠江国榛原郡であった。 室町時代には斯波氏・今川氏が守護に補任される。斯波氏の遠江守護の地位を得たものの、今川氏は遠江回復を図り、同じ足利一門である吉良氏も遠江国内の要地である浜松荘や懸河荘などを支配するなど、不安定な支配が続いた。 戦国時代に元来東の駿河国に強固な地盤をもつ今川氏が斯波氏・吉良氏を圧倒して領国化した。今川氏が衰えると、甲斐国の武田氏と、今川配下から独立した三河国の徳川家康による今川領分割が約され、遠江は家康が領するとされた。しかし今川支配を駆逐した両氏はまもなく交戦状態となり、山岳部や丘陵部は侵攻した武田氏が支配し、家康の支配は遠州平野や掛川地方を中心とする平地部に限られた。このため家康は浜松城を築いて居城を移し武田氏と対峙した。武田軍と徳川軍が交戦した遠江国の地としては、二俣城・高天神城・三方ヶ原が有名である。武田軍が伊那地方から遠江国に入る際には、兵越峠経由の連絡線が整備された。 安土桃山時代になると、武田氏滅亡跡に武田領国を確保した家康は関東八カ国に移転し、代わって遠江国には豊臣系大名が配置され、浜松城に堀尾吉晴が、掛川城に山内一豊が転入する。 江戸時代になると、吉晴は松江城に、一豊は高知城に移転する。代わって、遠江国には浜松藩と掛川藩が設置され、譜代大名が入れ替わりで入った。また、江戸時代には、伊那盆地や水窪の木材が、天竜川の舟運を利用して遠江国平野部に運搬された。 明治維新を迎えると、徳川宗家が遠江国・駿河国・その他に70万石を与えられ静岡藩とされた。石高が約1/10となる大減封での転封であったために俸禄では生活できない士族や、大井川の渡船解禁によって失業した川越人足らは、牧之原台地に入植し緑茶畑を造成した[6]。
律令時代
中世後期から近世「遠江國」(『天保國繪圖』天保9年)。原図では東が上になっているが、90度右回転させて北を上にして表示している
明治維新以後