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遠州流(えんしゅうりゅう)は小堀政一(遠州)に始まる武家茶道の一派である[1]。
茶道における遠州の系統には現在、主に3つの流派・団体がある。まず、本家である遠州流茶道は宗家が東京都新宿区にあり、同門組織を遠州流茶道連盟という。また、流祖 小堀遠州を顕彰する公益財団法人小堀遠州顕彰会を有する。次に小堀遠州の弟である小堀正行に伝わり、本家が取り潰されてからは唯一の遠州直系の子孫となった旗本小堀家に伝わる小堀遠州流(こぼりえんしゅうりゅう)の家元は東京都練馬区にあり、同門組織は松籟会という[2]。大和遠州流は、小堀遠州の三男小堀政伊
に始まる小堀権十郎家に伝わった茶道の流派である[3]。また、松殿山荘流(しょうでんさんそうりゅう)は、小堀遠州流第12世小堀政休(宗舟)の弟子である高谷宗範が創始し、現在は公益財団法人松殿山荘流茶道会として活動している[4]。遠州流茶道・小堀遠州流をはじめとする小堀遠州を流祖とする流派は武家茶道を代表する流儀[5][6]であり、庶民の間で広まった表千家、裏千家、武者小路千家をはじめとする千宗旦を流祖とする流派と比較し、武家らしく格式が高い特徴をもつとされる[7]。小堀遠州流は現在も武家茶道を代表する四派の1つとして、柳営茶会において毎年釜を掛けている[6]ほか、その他の流派・団体においても武家茶道の一派として各地で御点前を披露している。
千利休によって大成された茶道が、その孫である千宗旦によって「わび」一辺倒になった時、対照的な「芸術茶」として完成したのが遠州の茶道であり、「わび」「さび」に、遠州独特の美意識を加えた「きれいさび」と称せされている華やかな内に一抹の寂しさを宿していると言われる[8]。 小堀遠州は羽柴秀長の家老を務めた小堀正次の子で名は正一といい、10代前半から古田織部のもとで茶の湯を学んだ。慶長9年(1604年)26歳のときに父正次が急死し、家督を継いで松山城を預かり、その後元和2年(1617年)に朱印状を得て大名となり2年後近江小室藩に移封される。遠州の通り名は慶長13年(1608年)駿府城修築の功績によって遠江守に任ぜられたことによるが、これ以外に後陽成院御所造営、名古屋城天守閣の修築、松山城の再建など、各地で建物の新造・修繕を務め建築家・造園家として名を馳せた[9]。冷泉為満・為頼 5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人であった。
歴史
小堀遠州の門人(茶道)、沢庵和尚、江月和尚、瀧本坊昭乗、古筆了雪(古筆鑑定家。古筆了佐の五男)[12]、狩野守信、佐川田昌俊、黒田正玄、山田大有、大森秀祐(漸齋)、神尾元勝(出典:『読史備要』[13])
遠州茶道宗家の歴史