遠山茂樹_(日本史家)
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生誕 (1914-02-23)
1914年2月23日
日本東京都中央区
死没2011年8月31日(2011-08-31)(97歳)
出身校東京帝国大学
学問
研究分野歴史学(東アジア近代史)
研究機関東京帝国大学史料編纂所横浜市立大学専修大学
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遠山 茂樹(とおやま しげき、1914年(大正3年) 2月23日[1] - 2011年(平成23年) 8月31日[2])は、日本歴史学者。研究分野は日本近代史東アジア史東洋史自由民権運動、明治維新、歴史教育横浜市立大学名誉教授。『遠山茂樹著作集』(全9巻、岩波書店刊)がある。
経歴

1914年、東京市京橋区(現東京都中央区月島生まれ。1934年に旧制浦和高等学校卒業[3]1938年東京帝国大学国史学科卒業する[4]

1938年から1942年まで文部省維新史料編纂事務局に勤務[1]1942年から東京帝国大学史料編纂所に勤務。1951年から1952年まで東京大学教職員組合委員長を務める。1956年、東京大学を退職[1]。1957年から1960年まで千代田区史編纂委員、1958年から横浜市立大学文理学部教授[1]1972年から1973年同附属図書館長をつとめ、1979年に横浜市立大学を定年退官[1]。定年退官後は専修大学法学部教授となり、併せて1981年から1986年まで横浜開港資料館初代館長を務めた。1984年に専修大学を定年退職[5]
『昭和史』・昭和史論争と遠山茂樹の関わり

1955年11月16日に岩波書店から出版された『昭和史』は遠山茂樹、藤原彰今井清一の共著として岩波新書の形で発刊された[6]。『昭和史』は当時の一大ベストセラーとなった。初版は2万5千部であったが、即日で品切れとなり、三刷8万5千部、11月29日に4刷、12月7日時点で出品部数が11万3千部であった。読者カードから見る限り、読者には30代もいたが、20代の若者が圧倒的に多かったという[7]

『昭和史』には「執筆者の中で最も令名高かった遠山茂樹の個性的ともいえる歴史学のスタイルが反映されていた」「歴史を実際に経験した読者の共感をうることを目的としていた」とトリスタン・ブルネ(白百合女子大学講師)は評した[8]。1955年出版の共著『昭和史』旧版のはしがきに、執筆の目的として「私たちの体験した国民生活の歩みを、政治、外交、経済の動きと関連させて、とらえようとしたものである。とりわけ執筆者が関心をそそいだのは、なぜ私たち国民が戦争にまきこまれ、おしながされたのか、なぜ国民の力でこれをふせぐことができなかったのか、という点にあった。かつて国民の力がやぶれざるをえなかった条件、これが現在とどれだけ異なっているかをあきらかにすることは、平和と民主主義をめざす努力に、ほんとうの方向と自信とをあたえることになるだろう。」と述べ、新版もこれを引き継いでいる[6]

『昭和史』はテーマの大きさの割に限られた期間で執筆されたという状況があったことは早期改訂の要因となっている。『昭和史』が企画として決まったのは1954年の夏ころであった。1955年の8月15日が戦後10年の節目であり、8月15日に間に合うように刊行する当初スケジュールであった。遠山茂樹、藤原彰今井清一藤田省三の4名で1955年1月14日に最初の昭和史の研究会を行った。藤田省三は『天皇制国家の支配原理』の執筆中で国会図書館に通っている時期であったため「おれは無理だ、降りるよ」と宣言した。1955年7月22日に始めて原稿の一部を中島義勝(岩波書店編集者)が受け取った。7月29日から8月1日まで、熱海の偕楽荘に執筆者が缶詰になって執筆を進めた。8月25日に遠山茂樹の家で原稿は大詰めになる。遠山茂樹が無理をして一気にまとめ上げて、9月13日に最終原稿を整理する。9月25日にゲラが出て、10月に藤田省三に読んでもらったところ「これはあかんで。1ヵ月おいて書き直した方がよい」という意見だった。しかし、すでに刊行予告が出ており、伸ばすことができなかった[7]

『昭和史』新版は1959年8月に刊行された。改訂の重点の第一は第一次世界大戦から書き始め、「戦争がなぜ起こったのか、国民の力がなぜ勝利しなかったのか」について考え、第二は「できるだけ史実を多く紹介」し、「支配層内の動きをあきらか」にし、「政治といわれるものの実体を理解」できるように書き直したと述べている[9]。改訂の主導は今井清一が行った。今井は昭和史の前提となる大正期の国際・国内の政治状況の記述がなければ、昭和初期の国際・国内の政治状況の理解が十分にならないと主張した。遠山は同時代史の科学的認識の不十分さと国民的体験との「ずれ」を指摘した。読書会のテキストとして使われているため、異説を含めたコメントを入れ、史実の分量を増やす方針が決められ、巻末に主要参考文献を掲載した[7]

『昭和史』の記述を巡り亀井勝一郎松田道雄山室静竹山道雄らと遠山茂樹、和歌森太郎井上清江口朴郎らとの間で昭和史論争が繰り広げられた[7]。昭和史論争は亀井勝一郎が「現代歴史家への疑問」[10]、松田道雄が「昭和を貫く疼痛を」[11]を執筆したこと発端とし、遠山茂樹が「現代史研究の問題点」[12]を書いて、批判にこたえることにより開始された[7]

『昭和史』への批判は(1)一般国民に抱いている実感と現代史の記述に乖離があると感じられている事、(2)個人的体験をどのように歴史認識に結びつけていくか、(3)歴史の中で人間が描けていない、(4)歴史観の課題などが主要なテーマであった[7]

(1)実感との乖離については、亀井が「歴史の本の続出するときは必ず危機の時代だ。一民族の激しい動揺が根底にあるからで、歴史家とは何よりもまずこれを実感していなければならない存在である」[10]が典型的な批判である。歴史学において、実際に経験した体験的な感覚をどう位置付けるかの問題といえる。これについて遠山は、「(歴史から)感動させることが歴史教育の目標ではなく、(歴史を通じて)考えさせることである」とし、実感や生活感覚は歴史の手掛かりにすべきものであり、そこから正しい方法論をたどることにより、歴史の理性的認識に到達することができると論じた[13]

(2)個人的体験と歴史認識との結びつきに関しては、自分自身が経験した事件の経過を客観的に叙述することは困難であり、個人の体験は特殊であるから、いつどのような条件で、どんな立場で、そのように感じたかを綿密に吟味し、歴史全体の中で位置づける試みが必要であるとした。個人的歴史叙述に意味があるとしても、通史的叙述がより優位であると論じた[13]

(3)歴史の中で人間が描けていないという批判は亀井勝一郎は「この歴史には、人間がいない」との批判に現れる[14]


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