遠山友明
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 凡例遠山 友明
中津川市苗木遠山史料館所蔵
時代江戸時代中期
生誕享保元年12月26日1717年2月7日
死没宝暦3年6月1日1753年7月1日
改名松平越之進→遠山友張→遠山友明
戒名見性寺殿前佐州大守一嶽道安居士
墓所岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所
官位従五位下丹後守→佐渡守
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重
美濃苗木藩
氏族石岡松平家→苗木遠山氏
父母父:松平頼明、母:留与
養父:遠山友央
兄弟松平頼永、友明、松平武元松平頼幸亀井茲胤織田信右正室、松平信友正室
妻正室:遠山友央長女
子長男:友随[1]、次男:友充(相良福将)[2]
養子:友清[3]
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遠山 友明(とおやま ともあき)は、江戸時代中期の大名美濃苗木藩の第8代藩主。
略歴

享保元年(1717年)12月26日、常陸府中藩松平頼明の三男として生まれた。母は久野安静の娘留与。

享保18年(1733年)3月11日、第7代藩主・遠山友央の養嗣子となって、4月5日に遠山家に移り、その後、友央の長女と婚姻した。

同年5月1日、将軍・徳川吉宗御目見した。同年12月18日、従五位下に叙任され丹後守と称した。

享保19年(1734年)2月12日、名を友張に改名した。

元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を嗣いだ。

寛保元年(1741年)4月24日に江戸を出発し、5月1日に初めて苗木城へ入城した。

寛保2年(1742年)6月2日、佐渡守に改めた。

寛保3年(1743年)9月5日、9月5日、妻の俊[4]が16歳で没し、江戸高輪東禅寺に葬った。

延享2年(1745年)1月29日、友央の長男の左吉(遠山友清)を養子とした。

享保17年(1732年)閏5月25日、500石の旗本であった友央が、遠山友将の死去により、末期養子として苗木藩主を相続した際に、旗本として分知されていた500石を飛騨に近い加茂郡佐見村の4村(大野・小野・寺前・吉田)を幕府に渡し、高山陣屋飛騨郡代の支配下となっていたが、

延享2年(1745年)7月、高山陣屋の飛騨郡代が長谷川庄五郎から幸田善太夫に替わると、佐見村の内で210石は本田であるが、290石は新田なので上知できないので別の村から本田を290石差し出すように求められた。

そのため下野村369石のうち、290石を幕府(高山陣屋の飛騨郡代)に渡し、残り79石は苗木藩に残した。そのことにより、佐見村内の新田分の290石は苗木藩に戻った。

延享5年(1748年)5月15日、友明に改名した。

江戸の呉服橋御門番・日比谷御門番・常盤橋御門番を勤めた。

宝暦3年(1753年)春に発病し、6月1日に江戸で没した。友央の長男で養嗣子の友清が苗木藩主を嗣いだ。享年37歳。

墓所は岐阜県中津川市苗木の苗木遠山家廟所。
参考文献

『苗木藩政史研究』 第一章 苗木藩の成立 第一節 苗木藩の成立事情 二 歴代藩主の素描 八代丹後守友明 p13?p14 後藤時男 中津川市 1982年

『中津川市史 中巻T』 第五編 近世(一) 第一章 支配体制と村のしくみ 第三節 領主の略系譜 一 遠山家 遠山丹後守友明 p48 中津川市 1988年 

『恵那郡史』 第七篇 江戸時代 (近世「領主時代」) 第二十八章 諸藩分治 其二 苗木藩距江戸 遠山友明 p235 恵那郡教育会 1926年 

『福岡町史 通史編 下巻』 第五部 近世 第一章 近世における苗木藩の概観 第一節 苗木藩成立と領村支配 苗木遠山氏と藩主 p1?p8 福岡町 1992年

『美濃苗木 遠山家譜』(写本)、
東京大学史料編纂所

脚注^ 遠山友清の養子
^ 相良頼完の養子
^ 遠山友央の長男
^ 寶勝院殿玉室智明大姉










遠山氏苗木藩8代藩主 (1740年 - 1753年)


友政1600-1620

秀友1620-1642

友貞1642-1675

友春1675-1712

友由1712-1722


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