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この項目では、人や車両のための通路について説明しています。その他の道、道路については「道」をご覧ください。
道路(どうろ、ラテン語 strata、 フランス語 route
、ドイツ語 Strase、英語 road、スペイン語 calle)とは、人や車両などが通行するための道[1]、人や車両の交通のために設けられた地上の通路[2]である。フランスの田舎の街道。しばしば両脇に並木が植えられている。ニューヨーク5番街の道路(2008年)英語のroadは道全般を指す言葉である。streetは都市部の道路(街路)を意味する言葉として用いられるので、roadのほうが街と街を結ぶ道(街道)を指すことが多い。
「道路」が漢語として初めて使用された記録は、紀元前1000年頃の古代中国王朝である周の時代の経典『周来』である[3]。『論語』でも使われている[注釈 1]。日本では、江戸時代の俳人で知られる松尾芭蕉の『おくのほそ道』の一節に「道路」が使われ[3]、明治時代の文明開化期以降には多く使用されるようになった。
道路は、交通の要となる公物で[注釈 2]、誰でもいつでも通行することができる日常生活に不可欠なものであり、多くの人々が共同で使用するものである[5]。また、交通上の特徴としては、単に公共施設という物理的な概念にとどまらず、道路どうしが交わりネットワークを形成しており、多くの場合は目的地まで複数の経路を選択することができることにある[5]。つまり、道路は安全で円滑な交通路の確保と、交通ネットワークとしての機能が重要視されている[5]。 人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている[6]。 狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった[7]。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった[7]。 現在発見されているなかで最古の道路整備跡とされることのあるもののひとつには、イングランドにある Sweet Track 土の道は晴天時に特に不自由は無いが雨天になるとぬかるんで泥道になってしまい歩くことが困難になってしまう。それを防ぐために舗装が行われるようになった。 人の手による舗装の最古のものとしては紀元前4000年頃のものが発見されている。 古代のエジプト人は、ピラミッドの建設で、構築用資材となる大きな石塊を遠方より運搬するために、小石などを取り除いて石畳の道を整備してコロを用いて人力で運搬したと考えられている[6]。バビロンでは、紀元前2000年頃までには舗装された道路があったという記録が残されている[6]。古代の中国人は紀元前1100年代
歴史日本の道路については「日本の道路#日本の道路の歴史」を参照
「道」の起こり
舗装路のはじまり
日本列島では、縄文人の縄文時代前期中頃から中期末葉(今から約5900-4200年前)の遺跡である三内丸山遺跡に幅12メートルの舗装された道路があったことが、2000年に発見された[8]。
古代国家による道路網の整備と発達ギリシアのPorta Rosa
古代文明が発達し、国家が誕生すると道は計画的に作られていくようになり、道路網の整備は時の権力の象徴にもなった[6]。
中でもローマ帝国が建設したローマ街道は、最も大規模で組織的なものとしてよく知られ、その道路網の総延長は約29万 km、うち主要幹線は8万6000 kmにもおよんだ[9][10]。当時隆盛を極めた古代ローマ人は「世界のすべての道はローマに通ず! 」と豪語したと言われており[6]、道路の性格は軍事色、政治色が強いもので、ローマ市を中心とする広大な領域に、幅が数メートルほどある平坦な道路を放射状に敷き、都市間を最短距離で結ぶため直線的にひかれた[9]。中でも有名なのは、紀元前312年にアッピウス・クラウディウス・カエクスの命令で建設が始まったアッピア街道で、道路幅は15メートル、敷石舗装を施した本格的なものであった[9][10]。
このほか地中海のクレタ島やマルタ島の残る古代道路は、紀元前2000年頃のものといわれ、またアケメネス朝ペルシア帝国の王の道は、紀元前約500年頃のダレイオス1世の時代に、メソポタミアの首都スーサ(現イラン国内)から小アジアのサルディス(現トルコ国内)へ至る約2500 kmにおよぶ帝国を縦貫する計画道路が造られた[9][11]。
東アジアの古代中国においては、紀元前220年までに秦の始皇帝によって馳道(ちどう)とよばれる大規模な道路網の建設が始められた。建設期間10年ほどの間に造られた馳道の総延長は、現代中国の公式記録とも言われる『中国公路史』によれば1万7920里(約7481 km、秦時代の1里は417.5 m)とされ、『漢書(かんじょ)』では「道幅は50歩(約70 m)、路側に3丈(約7 m)ごとに青松を植えた」とされる[12]。始皇帝は、馳道建設の終わり頃に直道(ちょくどう)という、首都咸陽(かんよう)から北へ延びる幅約30 m程度の直線的な軍事道路を造っている[12]。その目的は、北方からの匈奴侵略に備えるためのものであり、現在の中国では直道は「中国最初の高速道路」とよばれている[12]。
また、物資を運ぶための交易路も古代より生まれていた。北ヨーロッパで産出された琥珀を地中海沿岸地域へ運ぶために生まれたヨーロッパ最古の道として知られる琥珀の道は、紀元前1900年頃から存在した[13][6]。