道武帝
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道武帝 拓跋珪
北魏
初代皇帝
道武帝像(雲崗石窟第20窟)
王朝北魏
在位期間386年(代王)
386年 - 398年(魏王)
398年 - 409年11月6日(大魏皇帝)
都城盛楽平城
姓・諱拓跋珪(渉珪、什翼圭、翼圭、開)
諡号道武皇帝(宣武皇帝[1]
廟号太祖(烈祖[2]
生年咸安元年7月7日
371年8月4日
没年天賜6年10月13日
409年11月6日
拓跋寔
献明賀皇后
后妃慕容皇后
陵墓盛楽金陵
年号登国 : 386年 - 396年
皇始 : 396年 - 398年
天興 : 398年 - 404年
天賜 : 404年 - 409年

道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝。は拓跋珪(たくばつ けい)。別名は渉珪、什翼圭、翼圭、開。
来歴と事績

鮮卑拓跋部の創始者・拓跋力微の玄孫。拓跋什翼?(高祖昭成帝)の孫(ただし『宋書』では拓跋什翼?の子となっている)。

371年、父の拓跋寔(献明帝)は武将の長孫斤の反乱によって殺される。さらに376年には後嗣問題がこじれて祖父の拓跋什翼?も庶長子(珪から見て伯父)の拓跋寔君によって殺された。このため弱体化した代は前秦苻堅によって滅ぼされる。肉親と祖国を失った幼い珪は鮮卑賀蘭部の東部大人だった外祖父の賀野干を頼った。

やがて成長した珪は苻堅が死ぬと、親戚で匈奴独孤部の大人(たいじん:部族長)劉庫仁の後盾を得て、386年に雲中川(現在の内モンゴル自治区フフホト市)で旧民を糾合し代王を称して自立、盛楽(現在の内モンゴル自治区フフホト市ホリンゴル県)に都を置いた。同年には国号を魏に改めて魏王に即位。その後河北に進出して同地を制圧、柔然などを討伐、また391年には遼河源流のシラムレン河下流で仇敵の庫莫奚を、また内蒙古の科布多(ホブド)でテュルク系の高車を征服、さらに396年には匈奴鉄弗部劉衛辰赫連勃勃の父)の軍勢を破ってこれを斬り、華北をほぼ平定した。398年には平城(現在の山西省大同市平城区)を都として皇帝に即位した。

即位後、部族民による合議制を廃して中央集権化を目指す一方で、それまで野蛮と言われた民族の習慣を打破するために漢民族の文化を積極的に取り入れた。また、多民族統一の手段として仏教を積極的に取り入れ、泰山の沙門竺僧朗を厚遇したり、平城に堂塔を建立したりした。皇始年間には、趙郡の沙門法果道人統に任じて僧徒を統率させた。

晩年は酒色に溺れ、さらには道士の調合した薬(寒食散)によって精神に異常をきたすようになり、侍従に対してまで乱暴を繰り返すようになった。409年、母の賀氏の身を案じた次男の清河王拓跋紹が宮廷クーデターを起こして珪を殺害したが、拓跋紹も兄(珪の長子)の拓跋嗣(後の明元帝)に捕らえられて殺害された。享年39。

死後に烈祖宣武帝[1][2]、のちに改められて太祖道武帝の廟号諡号を追諡された。
拓跋珪の幼少年年期にまつわる異説

中国の歴史家である李憑は、魏書の本紀に載る拓跋珪の早期経歴では「漢文化に対する敬慕の気持ちと理解度の高さは理解できない」[3]として本紀の記述を退け、『魏書』燕鳳伝、『晋書』苻堅載記、『宋書』、『南斉書』よりその早期経歴を再編している。大要は以下の通りである。
太元元年(376年)、代滅亡。拓跋什翼?と共に長安に身柄が移される。またこのとき拓跋什翼?に縄を手ずから掛けたことが不孝であったとされ、に配流される。
長安にて拓跋什翼?が死亡。後継者である拓跋珪の措置を燕鳳が「長安に戻し、のちの代の支配者として育成すべし」と苻堅に論じる。
太元8年(383年)、?水の戦いで苻堅が大敗。苻堅を護衛し長安に一度帰還した慕容垂に合流し、中山に移動した。
登国元年(386年)、代北にて代王即位。
ここで拓跋什翼?の死亡については、魏書における説「魏の滅亡に先立ち死亡した」を退け、晋書等が提唱する「長安に連行され当地にて客死した、没年不詳」が採用されている。続柄的には祖父となるが、拓跋寔死亡後賀氏が拓跋什翼?の妻とされたため、祖父でありながら父という立場になった、と推定されている。
宗室【拓跋氏系図】(編集)

魏書』巻1?巻22、『北史』巻5・巻14を元に作成。

 拓跋部        (1)拓跋毛 

               

               

               

            (13)拓跋鄰

               

            (14)拓跋詰汾

                
          
    禿髪匹孤     (15)拓跋力微

                          
                
    (南涼) (16)拓跋沙漠汗
 (17)拓跋悉鹿 (18)拓跋綽 (東部)拓跋禄官

                        
              
        (中部)拓跋猗?          (19)拓跋弗

                                      


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