道明寺天満宮
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道明寺天満宮

拝殿
所在地大阪府藤井寺市道明寺1丁目16-40
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度34分9.5秒 東経135度37分3.4秒 / 北緯34.569306度 東経135.617611度 / 34.569306; 135.617611 (道明寺天満宮)座標: 北緯34度34分9.5秒 東経135度37分3.4秒 / 北緯34.569306度 東経135.617611度 / 34.569306; 135.617611 (道明寺天満宮)
主祭神菅原道真
天穂日命
覚寿尼
社格等旧郷社
創建垂仁天皇32年
別名土師神社
札所等菅公聖蹟二十五拝第8番
神仏霊場巡拝の道第58番(大阪第17番)
例祭梅花祭(2月25日)
主な神事初天神うそかえ祭(1月25日
菜種御供大祭(3月25日
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}道明寺天満宮
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道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)は、大阪府藤井寺市道明寺にある神社旧社格郷社。境内には80種800本のの木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選に選定されている[1]
祭神

菅原道真公(すがはらみちざねこう)

天穂日命(あめのほひのみこと)

覚寿尼公(かくじゅにこう)- 菅原道真公のおばに当たる人物。

歴史

埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)のとこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。伝承では推古天皇2年(594年)に聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して土師寺としたという。この土師氏からはやがて菅原氏大江氏秋篠氏が分流していく。

平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この寺を訪れている[2]。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。昌泰4年(901年)、道真は大宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ[2]。道真遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている[2]

天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺(現在は真言宗御室派の尼寺)と改称(道真の号である「道明」に由来)し、同時に土師神社内に天満宮も創建された。神仏習合が進み時代が下ると道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになっていき、土師神社も天満宮が中心となっていった。

天正3年(1575年)、織田信長三好康長が戦った高屋城の戦いで社殿、五重塔などを焼失したが、同年中に信長から寄進を受ける。天正11年(1583年)次いで文禄3年(1594年)には豊臣秀吉から、後には江戸幕府からも寄進されている。社領は174石である。

寛永10年(1633年)には石川が氾濫したため、道明寺が天満宮境内に移転し、道明寺本堂が天満宮本殿のすぐ西隣に建てられるなど両者はやがて一体化していった。

1872年明治5年)神仏分離を行うこととなり、道明寺の五坊のうち二之室が神職家となって6月に天満宮は土師神社に改称した。また、郷社に列せられている。翌1873年(明治6年)9月に道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転した。1877年(明治10年)の明治天皇行幸の際に当社は行在所となった。

1952年昭和27年)に土師神社から道明寺天満宮と改称する。現在も学問の神として地元の人々に親しまれている。当社の南には五重塔跡の礎石が残る。
宮司

神仏分離のあった1872年明治5年)、天満宮の主体となった二之室の当時の住持は公家坊城俊明の八女で坊城俊政の妹・愛媛(得度して春寿尼)であったが、還俗して南坊城梓と称し、公家高倉永?(梓の義兄)の次男良興が次期神主として南坊城家を継いで平民となり、以後南坊城家が代々宮司を務めた[3]。良興は大阪の私塾「泊園書院」に学び、伯爵壬生基修の娘麻子を妻として、道明寺天満宮の発展に寄与した[4][5]
境内

梅園梅園神宝陳列館


本殿 - 安土桃山時代の再建。檜皮葺。

幣殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。

拝殿 - 延享2年(1745年)再建。檜皮葺。

能楽殿 - 文化12年(1815年)築。大阪府下最古の能楽殿。

絵馬堂 - 寛政8年(1796年)再建。現在は休憩所となっている。

神牛舎

幕内・花ノ国の手形の碑

宝物館 - 1902年明治35年)に菅原道真公壱千年祭の記念事業として建設され、伝来の神宝等約200点を収蔵・展示している[6]。開館日は、1月1 - 3日・1月25日・2月25日・3月25日、梅祭り期間中の土日祝日、釋奠の日と限定されており、それ以外は予約制となっている[6]

修羅 - 展示している修羅は、1978年(昭和53年)に三ツ塚古墳(道明寺6丁目)の出土品を西岡常一ら宮大工の手で復元したもの。この修羅は同年9月3日に朝日新聞社考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で巨石を乗せて牽引する実証実験に使われた。

大成殿(孔子廟) - 祭神:孔子孔門十哲1901年(明治34年)築。孔子像は小野篁の作だとされる。かつて下野国足利学校に、次いで高松藩の藩校にあったもの。

梅園

皇居遥拝所 - 1913年大正2年)築。

天寿殿 - 社務所。

明治天皇行在所の碑

庭園


筆塚

土俵 - 菅原道真の先祖が相撲の祖・野見宿祢であることから土俵が置かれている。

神門 - 三井八郎右衛門奉納。

夏水井

登り窯 - 2017年平成29年)5月に復元。

境外

五重塔跡 - 礎石が残る。境内の南にある。



能楽殿


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