この項目では、寺院の道成寺について説明しています。
能の道成寺については「道成寺 (能)」をご覧ください。
歌舞伎の道成寺については「京鹿子娘道成寺」をご覧ください。
道成寺
本堂(重要文化財)
所在地和歌山県日高郡日高川町鐘巻1738
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度54分52.2秒 東経135度10分28.4秒 / 北緯33.914500度 東経135.174556度 / 33.914500; 135.174556
道成寺 (どうじょうじ)は、和歌山県日高郡日高川町鐘巻にある天台宗の寺院。山号は天音山。本尊は千手観音。新西国三十三箇所第5番札所。道成寺創建にまつわる「髪長姫伝説」(「宮子姫伝記」)や、能、歌舞伎、浄瑠璃の演目として名高い「安珍・清姫伝説」で知られる。この伝説は、平安時代中期に編纂された『大日本国法華験記』にすでに見える古い話である。
拝観の際には縁起堂で「安珍清姫」の絵巻物を見せながらの絵説き説法が行われる。
歴史なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう(後述。この伝承では宮子は紀伊国の海女であったとする考証もある)[1]。これらの伝承をそのまま信じるわけにはいかないが、本寺境内の発掘調査の結果、古代の伽藍跡が検出されており、出土した瓦の年代から8世紀初頭には寺院が存在したことは確実視されている。1985年(昭和60年)に着手した、本堂解体修理の際に発見された千手観音像も奈良時代にさかのぼる作品である。
寺に残る仏像群は、大半が平安時代初期から中期のもので、この頃は寺勢さかんであったと推定される。現存する本堂は正平12年(1357年)頃の竣工であるが、寺はその後衰微し、天正13年(1585年)には羽柴秀吉による紀州征伐にあって諸堂が焼失し、二代目の梵鐘を奪われている。
天正16年(1588年)の文書によれば、当時は本堂と鎮守社が残るのみであった。明暦元年(1655年)、紀州藩主徳川頼宣の援助で本堂の屋根葺き替え等の修理が行われ、仁王門、三重塔などの諸堂塔は近世を通じて徐々に整備されていったものである。[2]
創建時は法相宗だったが後に真言宗となり、承応年間(1652年 - 1655年)に天台宗に改宗している。 道成寺の境内では、1978年(昭和53年)以降、数次にわたって発掘調査が行われ、奈良時代の金堂、塔、中門、講堂、回廊の跡が検出された。中門の左右から伸びる回廊は敷地を長方形に囲み、講堂の左右に達していた。回廊で囲まれた伽藍中心部には、東に塔、西に金堂が位置していた。現存する仁王門、三重塔、本堂はそれぞれ、奈良時代の中門、塔、講堂の跡に建てられている。なお、このような伽藍配置が整ったのは8世紀半ば頃のことで、創建当初(8世紀初頭)は、講堂の位置に寺の中心となる仏堂があり、塔、金堂等は後から整備されたものと推定されている[3][4]。 道成寺に伝わる伝承によれば藤原宮子は九海士の里(現在の和歌山県御坊市湯川町下富安)で生まれたとされており、道成寺および周辺地域には道成寺開創縁起として『宮子姫髪長譚』(宮子姫物語、髪長姫伝説)が伝えられ町おこしにも利用されている。和歌山県御坊市[5]、道成寺[6]および『道成寺絵とき本』[7]にて現在紹介されている伝承の大筋は下記のとおりである。 応神天皇の時代、9人の兵士に日高の浦が下賜された。9人は漁を生業としたため、周辺地域は「九海士(くあま)の里」とよばれるようになった。 九海士の里に住む夫婦である早鷹と海女の渚は、子宝に恵まれないことから氏神の八幡宮にお祈りしたところ、女の子を授かった。そこで名前を八幡宮にちなんで「宮」と名づけた。ところが、成長しても宮には髪の毛が生えてこなかったため両親は悲嘆にくれていた。 ある年、九海士の里は不漁に見舞われる。その原因は海底から差す不思議な光であった。宮の母である渚は、「娘に髪の毛が生えないのは前世の報い」と考え、里の人々を救おうと罪滅ぼしのために自ら海に飛び込んだ。 海中深く潜っていると、光輝くものがあった。それは黄金色の小さな観音像であった。渚は持ち帰った観音像を大切に祀った。光の消えた海は大漁続きとなったため里人たちは渚のことを尊敬したが、彼女は謙虚に祈りを続けた。 ある夜、渚の夢に観音が現れる。夢の中で髪の生えない娘のことを訴えると、にわかに宮の髪が生えはじめた。年頃になると髪も伸び、宮は「髪長姫」と呼ばれるようになった。 ある日、宮が黒くて艶のある髪をすいていると、雀が飛んできてその髪を一本くわえ、飛び去った。その雀は、奈良の都で勢力を誇っていた藤原不比等の屋敷の軒に巣をつくった。巣から垂れ下がる長く美しい黒髪を見つけた不比等は髪の主である宮を探しだし、養女に迎え入れた。 不比等の養女となった宮は「宮子」という名を授けられ、やがて文武天皇に見初められ后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の母となった。 宮子は奈良に行っても故郷の九海士の里が忘れられず、特に残してきた観音のことが気になっていた。その悩みは文武天皇に届き、「宮子に黒い長い髪を授けてくれた観音様をお祀りする寺を造立せよ」と紀道成に勅命を出した。その寺があの道成寺だという。 上記の伝承は出典により細かい部分が異なる。例えば御坊市によれば宮の髪の毛を奈良に届けた鳥はツバメであり、道成寺によれば早鷹と渚は村長夫婦である。 この『宮子姫髪長譚』は、ベースとなったとされる絵巻『道成寺宮子姫傳記』上巻とも複数の差異がある。例えば『道成寺宮子姫傳記』では、はじめに日高に住んでいた9人は兄弟であり、宮はそのうちの一人である(不妊に悩む夫婦は登場しない)。宮には元から髪の毛が生えており、自ら海中で発見した黄金の千手観音像を髻に包んで持ち帰っている。また藤原不比等のもとにつくられた雀の巣には、一丈ほどの髪の毛が見られたとの記述がある。
創建時の伽藍
伝承「宮子姫髪長譚」
境内境内
本堂(重要文化財)
入母屋造、本瓦葺き。桁行(間口)7間、梁間(奥行)5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する)。壁板に南北朝時代 正平12年(1357年)の墨書があり、同年頃の竣工と推定される。ただし、天授4年(1378年)銘の鬼瓦が残ることから、細部の造作の完了はその頃までかかったものとみられる。明暦元年(1655年)、徳川頼宣の援助により、屋根葺き替えを中心とする修理が行われた。その後、文化9年(1812年)から同12年(1815年)にかけて3年がかりで行われた修理は改築に近い大規模なもので、梁間を約1.9メートル広げ、壁板や床板を取替え、間仕切りも変更された。1985年(昭和60年)から1991年(平成3年)にかけて解体修理が実施されたが、この際、間仕切りや屋根内部の小屋組などの改変部を中世の姿に復旧した。小屋組は近世の修理で大幅に改変されていたが、古材が屋根裏に格納されていたり、他の場所に転用されていたものも多く、ほぞ穴などの痕跡から、当初の屋根構造を復元することができた。