道後温泉
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重要文化財である近代和風建築共同浴場・道後温泉本館については「道後温泉本館」をご覧ください。

道後温泉
重要文化財・道後温泉本館
温泉情報
所在地

日本
愛媛県松山市.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}道後温泉松山駅愛媛県地図
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度51分7.2秒 東経132度47分11.2秒 / 北緯33.852000度 東経132.786444度 / 33.852000; 132.786444座標: 北緯33度51分7.2秒 東経132度47分11.2秒 / 北緯33.852000度 東経132.786444度 / 33.852000; 132.786444
交通詳しくはアクセスの項を参照のこと
泉質単純温泉
泉温(摂氏)42 - 51 °C
外部リンク道後温泉
道後温泉物語 - 道後温泉旅館協同組合
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道後温泉本館道後温泉本館の夜景(2005年3月28日撮影)

道後温泉(どうごおんせん)は、四国愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯の一つといわれる。

その存在は古代から知られ、万葉集巻一にも見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(おんせんぐん)(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。

夏目漱石小説坊つちやん』(1905年)にも描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。2007年8月に地域団体商標地域ブランド)として認定された(申請者は ⇒道後温泉旅館協同組合、登録商標第5071495号)。
泉質

単純温泉源泉温度42 - 51度(これらを混合して46度で供給している)。地熱由来の非火山型の温泉である。近年、道後温泉本館も県条例の影響で塩素消毒となり、その際には論議を呼んだ。松山市中心部の銭湯、ホテルなどは湯量が余裕のある奥道後温泉からの引湯を利用している場合もある。
効能

神経痛、リウマチ・胃腸病・皮膚病・痛風貧血

※ 効能は万人にその効果を保証するものではない。
温泉街

道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心としている。本館自体が観光施設であるが商店街なども観光客で賑わう。

温泉本館前から、市内電車の道後温泉駅まで、L字型に道後商店街があり、土産物店や飲食店などが軒を連ねている。L字の角のところに、椿の湯がある。こちらも共同浴場であるが、料金も本館より安く、地元の人の利用が多い。

市内電車の道後温泉駅前には、放生園という小公園があり、坊っちゃんからくり時計足湯湯釜などがある。駅前広場には夜間は坊っちゃん列車の機関車と客車が留め置かれ、ライトアップされている。従来は道後温泉街には昼間の楽しみが少ないと指摘されていたが、放生園に足湯ができて、楽しみが増えた。足湯は湯釜を取り囲む形でベンチが作られ、腰を下ろして足を温泉に浸け、歩き疲れを取ることができる。なお、放生園の隣、商店街の入り口には(財)松山観光コンベンション協会の観光案内所と道後温泉旅館協同組合の事務所がある。

温泉本館の北から東にかけてがホテル旅館街となっている。これらの旅館群は高度成長期により広い土地を求め当地に進出したものが多く規模の大きいものが多い。戦前まで主要な旅館街であった道後商店街付近の旅館はほぼすべてが現在では営業しておらず跡地には現在は土産物店が立ち並ぶ。足湯・手湯が置かれ、無料で利用できるホテル・旅館がある。

周辺にも、道後公園湯築城跡、湯神社伊佐爾波神社宝厳寺、にきたつの道、セキ美術館、松山市立子規記念博物館などの見所が多数あり、一帯が観光名所を形成している。

近年、松山市が推進している「坂の上の雲」関連では、秋山家の墓が鷺谷墓地にある。

ホテル旅館街の西には歓楽街・風俗街があり、ストリップ劇場やソープランドなどもある。かつては置屋などの立ち並ぶ一帯もあったが、現在は廃屋同然となっている。

近年、道後温泉本館前の道路を迂回させ完全に歩道化することにより、モダンな周辺環境を整備しつつある。従来は横断歩道を渡らなくてはならなかったが、徒歩で安全に商店街と本館をつなぐことに成功し、商店街とより密接な関係を形成した。

道後温泉周辺は人力車での移動も可能なため、本館前には人力車の駐車スペースがある。
共同湯

現在、道後温泉には3つの共同湯(外湯)がある。

道後温泉本館 -松山市営。 観光客の利用も多いが、松山市に居住する65歳以上は200円85歳以上は無料で入浴できるため地元客も少なくない。皇族専用の浴室である又新殿もある。入浴料(神の湯)410円。改修工事により浴場面積が大幅に小さくなったため非常に混雑し、順番待ちの行列ができることも多い。

椿の湯 - 松山市営で地元客の利用が中心。入浴料400円ロッカー代10円。2018年に休館し改修工事を行い、内外装のリニューアルとともに浴場の水深が浅くなった。

道後温泉別館 飛鳥乃温泉(あすかのゆ) - 松山市営。聖徳太子らの来湯伝承にちなんで、飛鳥時代をイメージしたデザインとした。入浴料600円。高齢者の割引がなく入館料が高いため地元客が少なく混雑も少ないために、ゆっくりと入浴できる。

上述の外湯3湯いずれも公営の公衆浴場であるため全国的に珍しく公式に入れ墨を持つ者の入浴を認めている。
ギャラリー

道後商店街入口

道後温泉駅前にある放生園

温泉街

セキ美術館

椿の湯(東側)

椿の湯(西側)

周辺の宿.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

道後温泉本館の周辺には温泉旅館・ホテルが建ち並んでいる。巨艦ホテルはない。特に、本館からゆるやかな坂を上る県道の両側に比較的規模の大きいホテルが数館軒を並べている。小規模な旅館は、本館周辺および冠山の東側の道沿いに多い。なお、本館前の商店街もかつては旅館街であったが、自動車でのアクセスが一般的となり、また規模拡大を志向する中で、旅館は移転し、現在は土産物街となっている。
主な温泉旅館・ホテル
道後多幸町


道後館瀬戸内海汽船グループ)

道後ややJR四国ホテルグループ

道後鷺谷町


宝荘ホテル 道後御湯

道後hakuro

ホテル椿館

道後姫塚


道後彩朝楽湯快リゾート

道後姫原


道後プリンスホテル

道後湯之町


道後温泉 ふなや

大和屋本店

岩崎町


KKR道後ゆづき(国家公務員共済組合連合会

歴史温泉番付では西の小結

道後温泉は、日本国内でもひときわ古い3000年もの歴史を持つといわれる温泉である(冠山から、約3000年前の縄文中期の土器石鏃(せきぞく)が出土している)。神話の昔はもちろん、史実上の記録に登場する温泉として見ても、道後温泉は日本最古級の歴史を持つ。

歴史については、年表としては ⇒松山市道後温泉事務所 を、物語的には ⇒道後温泉旅館協同組合 を参照。
神話の時代から古代
白鷺伝説
昔、足を痛めた
白鷺が岩の間から流れ出る湯に浸していたところ、傷は癒えて、飛び立って行くのを見て、村人が手を浸すと温かく、温泉であり、効能を確認したという伝説がある。これが道後温泉の発見とされる。道後温泉のみならず、白鷺と温泉の縁は深く、各地の温泉の発見物語に白鷺が登場する。道後温泉ではさらに念の入ったことに、その白鷺が舞い降りた跡が残ったものとのいわれのある石(鷺石)があり、市内電車の駅前の放生園(ほうじょうえん)という小公園の一角に据えられている。白鷺は道後温泉のシンボルの一つともなっており、道後温泉本館の周囲の柵にも白鷺をモチーフとした意匠がみられる。また、鷺谷という地名が残っている。この白鷺は河野氏の象徴でもあり、従前の伊予の湯を後述する白鳳地震などで失って後、新しい伊予の湯としての道後温泉の誕生物語となったのではないかとする考えもある[1]
伊予国風土記逸文[注釈 1]
日本神話の時代、大国主命少彦名命が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、長旅の疲れからか少彦名命が急病に苦しんだ。大国主命は大分の「速見の湯」を海底に管を通して道後へと導き、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、たちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたという。この模様を模して、湯釜の正面には二人の神様が彫り込まれている。また、その上で舞ったという石は、道後温泉本館の北側に「玉の石」として奉られている。こちらにも、白鷺同様、命の「足跡」と伝えられる跡が残っている。なお、有馬温泉玉造温泉ほか全国の各地に類似の伝説がある。
596年、厩戸皇子(聖徳太子)来湯
病気療養のため道後温泉に滞在したことが伊予国風土記逸文に記されている。皇子は伊佐爾波の岡に登り、風景と湯を絶賛し、記念に碑文を遺したとされる(伊予湯岡碑)。しかし今日までその現物は発見されておらず、道後温泉最大の謎とされている。14世紀に河野氏が湯築城造営の際に持ち去ったという説もある。椿の湯の南側の緑地にその模様を記した碑が建立されている。これをはじめとして、『日本書紀』や伊佐爾波神社(八幡宮)の社伝などによると、景行天皇仲哀天皇神功皇后舒明天皇斉明天皇(皇極天皇)・中大兄皇子(後の天智天皇)・大海人王子(後の天武天皇)など多くの皇族が行幸したとされる。
7世紀
645年大化の改新が行われると、現在の今治市の辺りに伊予国国府が置かれ、京から見て国府よりも遠い地域は「道後」(←→道前、道中)と呼ばれたことから、後世になるとこの温泉のある一帯が特にそう呼ばれるようになった。『日本書紀』の天武13年10月(684年)の条項に「時伊予湯泉(いよのゆ)没而不出」と見え、これは白鳳地震による地変で出湯が停止したことを示すものであり、同様の現象は宝永地震安政南海地震1946年南海地震でも見られ、出湯の一時停止は南海地震の特徴の一つである[2]。ただし、この時停止した伊予湯泉や、上記の伊予国風土記逸文に現れる湯については、道後温泉のことであるかどうかは不明であり、異論もある[3]
中大兄皇子
白村江の戦いの前に中大兄皇子(後の天智天皇)が日本・百済連合軍を集結させた。
7世紀頃
2005年11月、松山市埋蔵文化財センターは、道後温泉本館の東隣の発掘調査現場から7世紀頃の地層に温泉の成分である高濃度の硫黄やアルカリ泉に存在するケイ藻の成分が含まれていたと発表した。史書に登場する温泉の存在を裏付ける史料ではないかと注目されている。
中世

1239年宝厳寺一遍生誕。

14世紀、河野氏が一帯を支配、湯築城を本拠地とする。

江戸時代

1635年寛永12年)、松平氏の温泉経営始まる

松山藩松平定行が入ってから、道後温泉は定行ら代々の松平松山藩主により大きく整備された。「温泉経営の時代」である。


1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震により湧出が止まり、湯神社などで祈祷が行われる(『味酒日記』)[4]


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