道南十二館(どうなんじゅうにたて)は、蝦夷地(後の渡島国、現北海道)渡島半島にあった和人領主層の館の総称。松前藩の歴史を記した『新羅之記録』に十二の館が記されていることから、この名がついた。東は函館市に所在する志苔館から西の上ノ国町の花沢館まで、渡島半島南端の海岸線に分布する。安東氏の被官である館主はこれらの館をアイヌ民族や和人商人との交易や領域支配の重要拠点とした。 館名称コシャマインの
十二館一覧
戦い当時の館主現在地築造現況/史跡指定
志苔館小林太郎左衛門良景
史跡に指定
宇須岸館(箱館)河野加賀右衛門尉政通(下国守護補佐)函館市元町・弥生町1445年(文安2年)?元町公園・市立函館病院跡
茂別館下国安東八郎式部大輔家政(下国守護)北斗市矢不来1443年(嘉吉3年)?1982年7月3日
史跡に指定
中野館佐藤三郎左衛門尉季則木古内町中野詳細位置不詳
脇本館南條治郎少輔季継知内町涌元詳細位置不詳
穏内館蒋土甲斐守季直福島町館崎1965年、青函トンネル工事に伴い破壊
覃部館今井刑部少輔季友松前町東山
大館下国山城守定季(松前守護)
相原周防政胤松前町字神明、字福山1400年(応永7年)?1977年4月5日
史跡に指定
禰保田館近藤四郎右衛門尉季常松前町館浜
原口館岡辺六郎左衛門尉季澄松前町原口原口A遺跡か?
比石館厚谷右近将監重政上ノ国町石崎館神社
花沢館蠣崎修理大夫季繁(上国守護)上ノ国町上ノ国15世紀頃(1443年(嘉吉3年)?)2006年3月31日
史跡に指定
上の表中、「史跡」は国指定の史跡(文化財保護法第109条に基づき日本国文部科学大臣が指定)を指す。 10世紀半ば、渡島半島の日本海側では、アイヌ文化成立の前段階である擦文時代に擦文文化と本州土師器文化の間に生じたクレオール的文化である青苗文化が成立した。この渡島半島に和人の移住が起こったのは鎌倉時代末期から室町時代中期にかけてのことであった。考古資料から、北海道への和人の進出が本格化したのは室町時代の14世紀後半以降と推定される[1]。また、中世の道南には渡党と呼ばれる住民がいた[† 1]。 渡島半島に居住した和人は津軽安藤氏(安東氏)の支配下に置かれた。1454年(享徳3年)、安東政季は南部氏に追われ武田信広らとともに勢力圏であった蝦夷地に渡り、配下の武将を12の館に配置、1456年(康正2年)に秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)を経て秋田河北地方(後の檜山郡、現秋田県能代市)に南遷する際には、茂別館
歴史
前史
館主の割拠と蠣崎氏の台頭
翌1457年(長禄元年)東部の首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、和人に向け戦端を開いたコシャマインの戦いが発生すると、十二館のうち10までが落城した。翌1458年(長禄2年)に蠣崎季繁の女婿であった武田信広によってコシャマイン父子が討たれて以降も戦いは散発し、十二館は交戦時の拠点となった。
1496年(明応5年)には、粗暴等行状の悪さを理由に松前守護職であった一族の下国恒季が、武田信広の嫡男である蠣崎光広ら配下の蝦夷島館主らにより安東氏に訴えられ、恒季は同年11月、安東氏の手勢により攻められ自害した。これにより松前守護職は安東恒季を補佐した相原季胤が継いだ。
1512年(永正9年)蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)、コウジ(?時)兄弟率いるアイヌが蜂起し、数カ所の館を襲撃するという事件が起きる。上国守護職であった蠣崎光広、義広親子が撃退し、一時小康状態となるものの、翌1513年(永正10年)には再度攻撃を始め、松前大館が陥落し、松前守護職の相原季胤らが討ち取られた。空き城となった大館には、翌1514年(永正11年)光広が入城した。安東氏は当初これを認めなかったが、再三に及ぶ要請を受け、上国に加え松前守護職への就任を追認、蠣崎氏に蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認め、その過半は檜山に送られることとした。なお、安東恒季の誅殺やこのアイヌ蜂起を光広による松前守護職簒奪の謀略とする説がある。こうして松前大館に拠る蠣崎氏の勢力が他の館主に優越する体制が固まり、蠣崎氏による他の館主の被官化が進んだ。 1593年(文禄元年)、蠣崎慶広が秀吉から蝦夷島主として承認され安東氏から名実ともに独立した。これに伴い蠣崎慶広は松前氏を名乗る。
松前藩の成立