道元
正治2年1月2日 - 建長5年8月28日(旧暦)
(1200年1月26日 - 1253年9月29日(グレゴリオ暦)
(1200年1月19日 - 1253年9月22日(ユリウス暦))
諡号仏性伝東国師[1]、承陽大師[2]
尊称高祖
生地山城国乙訓郡久我村 誕生寺
道元(どうげん、正治2年1月2日(1200年1月26日) - 建長5年8月28日(1253年9月29日)[3])は、鎌倉時代初期の禅僧[4]。日本における曹洞宗の開祖[4]。晩年には、希玄という異称も用いた。宗門では高祖承陽大師と尊称される。諡号は仏性伝東国師、承陽大師。諱は希玄[4]。道元禅師とも呼ばれる。主著・『正法眼蔵』は、和辻哲郎やスティーブ・ジョブズら後世に亘って影響を与えている[5]。 道元は、正治2年(1200年)、京都の公卿の久我家(村上源氏)に生まれた。幼名は「信子丸」[要出典]、「文殊丸」[6]とされるが、定かでは無い[7]。両親については諸説あり、仏教学者の大久保道舟が提唱した説では、父は内大臣の源通親(久我通親または土御門通親とも称される)、母は太政大臣の松殿基房(藤原基房)の娘の藤原伊子で、京都木幡の木幡山荘[8]にて生まれたとされているが、根拠とされた面山瑞方による訂補本『建撕記
生い立ち
4歳にして漢詩『百詠』[10]、7歳で『春秋左氏伝』、9歳にて『阿毘達磨倶舎論』[11]を読んだ神童であったと云われており、両親の死後に母方の叔父である松殿師家(元摂政内大臣)から松殿家の養嗣子にしたいという話があったが、世の無常を感じ出家を志した道元が断ったと言う説もあり、逸話として「誘いを受けた道元が近くに咲いていた花を群がっていた虫ごとむしりとって食べ、無言のうちに申し出を拒否する意志を伝えた」とある。
主な活動曹洞宗宗祖 道元禅師 誕生寺道元禅師示寂の地曹洞宗高祖 道元禅師顕彰碑 「只管打座」(鎌倉市)
建暦2年(1212年)、比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ねる[12]。
建暦3年(1213年)、天台座主公円について出家し[4]、仏法房道元と名乗る。
建保3年(1215年)、園城寺(三井寺)の公胤の元で天台教学を修める[4]。
建保5年(1217年)、建仁寺にて栄西の弟子の明全に師事[4]。
貞応2年(1223年)、明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡る[4]。
南宋の宝慶元年(1225年)、天童如浄の「身心脱落」の語を聞いて得悟[4]。