道三堀(どうさんぼり)は、天正18年(1590年)に、徳川家康の命により造られた船入り堀(運河)を指す。人工の水路として江戸に初めて造られた堀である。江戸湊に河口(のちの日本橋のすぐ東)を持つ平川(日本橋川)を遡り、この堀を通って、和田倉門付近の内堀の八重洲河岸で荷上げし江戸城へ物資を運んだ。
堀の南岸に幕府の侍医、曲直瀬家(2代目道三)の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれた。江戸城への輸送路として活用されたが、明治43年(1909年)に埋め立てられた。[1][2] 現在の皇居東にある和田倉門
位置
ただし『落穂集追加』には日本橋筋(ただし開削当時は日本橋はまだない)から道三河岸までを開削したとあり、これに従えば道三堀は外濠川との交差点から東側の日本橋川をも含む、江戸城内堀から隅田川までを繋ぐ水路を指す。この場合、水路は小名木川・古川を通り行徳塩田まで直通した。 家康は1590年7月の江戸入り後、まず家臣が住む住居を整備したあと、8月に、江戸城普請の物資運搬のために道三堀を開削した。開削で出た土砂は埋め立てに利用された[4]。翌9月には町割に着手し、まず道三堀の北側に「本町」(現在の日本橋本町の一部、日本橋本石町、日本橋室町)を造った。道三堀の両岸には、四日市町(定期市)、材木町、舟町、柳町(遊郭)などができて賑わった[1]。 日比谷入江が埋め立てられたあとも、江戸城への物資運搬路として活用された[5]。ただし日比谷入江の埋め立て後に内堀になった堀は水位が上昇し、道三堀の江戸城側付け根で落差を生じ「辰ノ口」と呼ばれる水落ちが生じた。このためこれより先に船が入ることはできなくなった。
歴史
脚注^ a b 『「お江戸」の素朴な大疑問』中江克己 PHP研究所, 2005
^ ⇒「道三堀跡」江戸城史跡巡り
^ 『百万都市江戸の生活』北原進 角川学芸出版, 1991
^ 『都市地理学研究ノート』永野征男 冨山房インターナショナル, 2009
^ 『河村瑞賢: みちのく廻船改革』長内國俊 文芸社, 2007
舞台になった作品
小説『道三堀のさくら』山本一力
関連項目
山谷堀
外部リンク
⇒東都名所「八ツ見橋真景」 - 道三堀と日本橋川が描かれている。
⇒江戸城史跡めぐり
江戸の堀と河川