過所(かしょ)とは、中国の漢代より唐代の頃に用いられた通行許可証。律令制の日本でも同様のものが用いられた。 漢代には、過所を「傅」や「?」(啓)、「繻」とも称した。漢代や晋代の過所は、中央アジアや敦煌で発見された木簡中に見つかっている。 唐代では、唐令
概要
交付元の官庁名が記される。1通は尚書省司、1通は越州都督府。
旅行者・従者の身分、姓名、年齢、携行品。
行き先。
旅行目的。
交付申請。
申請に対する審査。
交付年月日。
交付官司の官職名、氏名。
これらが、過所に記載される内容となる。
越州都督府の交付した過所には、「円珍は、越州の開元寺を出発し、洛陽・長安・五台山を巡礼し、再び開元寺に帰還する予定である。その往還の州県にある関津などで、官司に咎められないよう、交付申請を行なう」と認められており、越州都督府は、その内容を審査した上で、発給を認可した旨が記されている。また、末尾には、円珍が潼関を通行した際に、確認した関吏の官職・氏名・年月日が記されており、そこには、官吏のサインである自署(花押)が記される。実際に、今日のパスポートと同様の役割で使用されたことを示す資料である。
その他、『入唐求法巡礼行記』には、円仁が受給した過所・公験が写しとられている。また、1965年になって、敦煌莫高窟中の第122窟の前で、過所の写しが発見された。それは、僅か7行の断片ではあるが、天宝7年(748年)の紀年が見られる。さらに、1973年には、トルファンのアスターナ石窟中の509号墓から、開元20年(732年)の、ソグド商人の石染典ら一行が使用した過所の現物が発見された。
また、唐代には、過所に類した公文書として「公験」があり、宋代の後半には「公憑」や「引拠」と呼ばれた。清朝では、「路引」(旗人)や「口票」(庶民)と呼ばれる旅券が用いられた。
日本でも公式令・関市令などに規定が存在し、官民が関所を通過する際には所属する官司・本貫地のある国司・郡司に対して過所の請求を行い、往復する場合には途中の国司に往路の過所(来文)を示して請求した。関の役人(関司)は通行者から過所を呈示を受けて、その内容を記録(録白案記)した。
参考文献
内藤湖南「三井寺所蔵の唐過所に就て」(『桑原博士還暦記念東洋史論叢』、1931年)
仁井田陞『唐宋法律文書の研究』(1937年)
大庭修