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遍路道(へんろみち)は、四国霊場において霊場間を繋ぎ、巡礼者(「お遍路」)が歩く道を言う。
四国八十八箇所の札所間だけではなく、番外霊場(四国別格二十霊場を含む)や新四国曼荼羅霊場、四国三十三観音霊場へつながる道も含まれる。狭義には「歩き」でしか通れない道を呼ぶことがある。また、小豆島霊場の歩行者のみが通る巡礼道、篠栗霊場の巡礼道も遍路道という。一般的には車道として整備された道も含むが、車やオートバイ・自転車などを使った遍路が狭義の遍路道を迂回するために通行する道路で、歩き遍路が使わない道は遍路道とは呼ばない。また、空海が通ったとみられる本来の道を旧遍路道というが、崩れたり藪化したりして通れなくなったり、新しく近い道ができた為にほとんどの巡礼者が通らなくなった道を旧遍路道という場合もある。讃岐遍路道 根香寺道(史跡)の摩尼輪塔(県指定文化財)と下乗石阿波遍路道 立江寺道(史跡)の遍路道標と四国のみち道標 奈良時代には修験道の修行者や、聖と呼ばれる民間宗教者が四国の辺地を訪れて修行をしていた。これが四国遍路の祖形だという説があるが、この人々が歩いた道が現在の遍路道につながるかどうかは不明である。四国霊場を開いたとされる空海(弘法大師)の入定以後、その修行の跡を辿って平安時代末頃から真言宗の僧が四国を回るようになる。当所は四国各地の寺院や神社、弘法大師の霊跡
歴史
江戸時代になって社会が安定し、西国や坂東と共に四国霊場にも庶民による巡礼が一般化しはじめ、智積院の僧澄禅が承応2年(1653年)に巡拝した記録『四國辺路日記』の中に阿波の海部で世間流布の日記[1]を買ったことが記されているように、遍路のための案内書が出版されるようになっている。そして、20回以上四国霊場を巡ったとされる僧真念が貞享4年(1687年)に大坂で刊行した『四國邊路道指南』(しこくへんろみちしるべ)[2]が現存する最初の出版されたガイドブックで、さらに、現存する書物の中で初めて八十八箇寺の札所番号を記載し、1番札所から順に記述している(真念自身は八十八番の次第は、何時、誰が定めたのか定かではないと記述している)。真念は四国八十八箇所を巡るのに合理的な経路を示し、自らが建てた道標石(しるしいし)を紹介して遍路への便宜を図っている。記事中に紹介された道標石は30箇所程度しかないが、総数では二百余か所に建てられたという。この道標石は遍路道の固定化を進めたものと考えられる。西国や坂東の札所が必ずしも札所番号の順番に並んでおらず、最短距離で巡礼するには順不同にならざるをえないのに対して、四国霊場では札所の番号順に進むことで一部を除いて一本の線となり、四国を環状に結ぶようになっているのは札所が計画的に決められたからであろう。
遍路道が固定化したといっても、新たに近道やより歩きやすい道ができると人々はそちらを歩くようになる。明治以降はトンネルや橋梁の建設などによる道路の付け替えも進み、遍路道も大きく変遷していった。現在では一部の山岳寺院への登山道などを除き、多くが国道や地方道に編入され舗装道路となっている。ただし、近年になって歩き遍路の愛好者が増えたことで、廃れていた旧遍路道を再整備する動きが興り、「へんろみち保存協力会」やロータリークラブ等の団体や地元の有志、地方公共団体などにより、峠道などでいくつかの遍路道が復元・整備されている。 四国八十八箇所霊場は環状になっているため、遍路はどこから始めてもよいとされている。従って遍路道の起点というものは考える必要はない。四国在住の遍路は最寄りの札所から、岡山方面からの遍路は多度津港や丸亀港に上陸し善通寺から、広島方面や九州からの遍路は松山港に上陸し太山寺から、また、八幡浜港に上陸し明石寺からと様々で、実際に大正7年6月4日熊本を出発した高群逸枝[3]は7月14日八幡浜港[4]に上陸し翌日明石寺に向かい逆打ちをしている。しかし、関西以東方面からの遍路が多く、また、案内書が一番札所の霊山寺から順に紹介[5]するようになってからは、一という数字に引かれること、四国八十八箇所は弘法大師が密教の曼荼羅の世界を四国に投影したという思想によって、阿波を発心の道場、土佐を修行の道場、伊予を菩提の道場、讃岐を涅槃の道場と呼ぶのでその順番に引かれること、などの点からも一番札所から始める遍路が圧倒的に多かったと考えられ、さらに現代は容易に一番札所まで移動できる為どこ在住の人でも一番からスタートする遍路が多い。そして、近代以前は大坂方面からの遍路のほとんどは淡路島を経由して岡崎港(鳴門市撫養町岡崎)へ上陸し撫養街道
遍路道の起点