運慶
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運慶(『集古十種』)東大寺金剛力士像(阿形像)東大寺金剛力士像(吽形像)興福寺北円堂無著像興福寺北円堂世親像金剛峯寺八大童子像のうち制多迦童子(伝運慶作)六波羅蜜寺地蔵菩薩像(伝運慶作)運慶の肖像とされる僧形像(六波羅蜜寺)運慶願経 奧書

運慶(うんけい、生年不詳 - 貞応2年12月11日1224年1月3日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した仏師である。慶派に属する[1]
経歴
出生

運慶は興福寺を拠点に活動していた奈良仏師康慶の子であるが詳しい生い立ちは分かっていない。円成寺大日如来像造像銘中に「大仏師康慶実弟子運慶」とあり、この「実弟子」は「実子である弟子」の意と解釈されている[2]。長男湛慶が承安3年(1173年)生まれであることが、京都市・妙法院蓮華王院本堂(三十三間堂)本尊の台座銘から知られ、その父である運慶は12世紀半ば頃の生まれと推測される[3]
初期の活動

運慶の現存最古作は、安元2年(1176年)に完成した奈良・円成寺の円成寺木造大日如来坐像(英語版)である[3]。寿永2年(1183年)には、以前から計画していた『法華経』の書写を完成した。この『法華経』は現在「運慶願経」と呼ばれている(京都・真正極楽寺蔵および個人蔵、国宝)。経の奥書には48名もの結縁者の名が記され、その中には快慶をはじめ、実慶・宗慶・源慶・静慶など後に仏師として活躍することの知られる者が含んでおり、一門をあげての写経だったことがわかる[4]
興福寺再興事業への参加

治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する慶派の奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では運慶の父である康慶が南円堂の造仏を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂(じきどう)の造仏を担当することとなった[5]
鎌倉幕府への接近

成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝勝長寿院本尊阿弥陀如来像を造るため鎌倉に下向した(『吾妻鏡』)[6]。一方、運慶は文治2年(1186年)正月の時点で興福寺西金堂本尊釈迦如来像の造像に携わっていたが(『類聚世要抄』)[7]、その直後、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市願成就院阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている(阿弥陀如来像を除く各像像内に納入の五輪塔形銘札)。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている(不動明王・毘沙門天像像内納入の月輪形銘札)[8]
東大寺での仕事

治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっている。建久5年(1194年)から翌年にかけて、東大寺南中門二天像が造立されたが、このうち西方天担当の小仏師として「雲慶」の名が記録にみえる[9]。建久7年(1196年)には康慶の主導で、快慶、定覚らとともに東大寺大仏の両脇侍像(如意輪観音虚空蔵菩薩)と大仏殿四隅に安置する約14メートルに及ぶ四天王像の造立という大仕事に携わる。運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩像の大仏師を務め、四天王像のうち増長天の大仏師を担当している(『鈔本東大寺要録』『東大寺続要録』)[10]。以上の諸像はその後建物とともに焼失して現存しない(快慶作金剛峯寺像、海住山寺像をはじめ大仏殿像の形式を模したといわれる四天王像が多く造られ、「大仏殿様四天王像」と称される)。現存するこの時期の作品としては建仁3年(1203年)造立の東大寺南大門金剛力士(仁王)像がある。造高約8.5メートルに及ぶ巨像2躯は、1988年から1993年にかけて解体修理が実施された。その結果、阿形像の持物の金剛杵内面の墨書や吽形像の像内納入経巻の奥書から、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)の4名が大仏師となり、小仏師多数を率いてわずか2か月で造立したものであることがあらためて裏付けられた[11]。4人の大仏師の役割分担については諸説あるが、運慶が両像の制作の総指揮にあたったものと考えられている[12][13]。この功績により、建仁3年(1203年)の東大寺総供養の際、運慶は僧綱の極位である法印に任ぜられた。これは奈良仏師系統の仏師として初めてのことであった[14]

承元2年(1208年)から建暦2年(1212年)にかけては、一門の仏師を率いて、興福寺北円堂の本尊弥勒仏以下の諸像を造っている(『猪隈関白記』、弥勒仏像像内納入品)。これらのうち弥勒仏像、無著菩薩・世親菩薩像が北円堂に現存し、運慶晩年の完成様式を伝える。殊に無著・世親像は肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作に数えられている[注 1]。同堂四天王像はいま平安時代初期造立の木心乾漆像に替わっているが、興福寺南円堂に伝来した四天王像が本来の北円堂像であった可能性が説かれている。

最晩年の運慶の仕事は、源実朝北条政子北条義時など、鎌倉幕府要人の関係に限られている。その中で、建保4年(1216年)には、実朝の養育係であった大弐局が発願した、神奈川・称名寺光明院に現存する大威徳明王像を造った。更に、源実朝の持仏堂、北条義時の大倉薬師堂、北条政子の勝長寿院五大尊像などの諸像を手がけている[15][要ページ番号]。

同像の納入文書の記載によれば、本像は大日如来像、愛染明王像とともに造立されたものだが、これら2像は現存しない。
作風

平安後期に都でもてはやされた定朝様(じょうちょうよう)の仏像は、浅く平行して流れる衣文、円満で穏やかな表情、浅い肉付けに特色があり、平安貴族の好みを反映したものであった。対して運慶の作風は、男性的な力強い表情が特徴的である。また、様々な変化をつけた衣文、量感に富む力強い体躯なども特色として挙げられる。運慶のこうした作風については当時の武士の気風を反映したものと解説されるが、こうした一面的な理解には疑問を呈する意見もある[16]
現存作品

運慶の作と称されている仏像は日本各地にきわめて多い(特に仁王像に多い)が、銘記、像内納入品、信頼できる史料等から運慶の真作と確認されている作品は少ない。以下は国宝・重要文化財指定名称に運慶の関与が明記され、運慶ないし運慶工房の真作として学界にほぼ異論のないものである。(文中の「重要文化財」は日本の文化財保護法第27条の規定に基づき、日本国(文部科学大臣)が指定した重要文化財(「国の重要文化財」)を指す。)
運慶作と確定している作品

奈良・
円成寺 大日如来坐像(国宝) - 安元2年(1176年)10月。運慶の真作として確認できる最初の作品。手は智拳印を結ぶが、その位置は一般的な大日如来像よりかなり高く、それによって胸の前に複雑な空間が生じている。また、条帛をわざわざ別材で接ぎ合わせ、より現実に近い造形を試行している。台座蓮肉天板裏面に運慶自署と思われる墨書銘があり、これに拠り運慶は本像を11か月かけて制作し、仏像本体の代金として上品8丈の絹43疋を賜ったことがわかる。当時この仏像のような等身大の像の制作期間はおよそ3か月程度とされ、それよりも遥かに長い日数をかけて造仏していることから、運慶が他の仏師の助力を得ず独力で制作したと考えられる。願主ではなく仏像を作った仏師自らが名を記した現存最古の例としても貴重である。この銘文は大正10年(1921年)に発見され、近代的な運慶研究の端緒となった。


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