『運命の力』(うんめいのちから、La Forza del Destino )は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。原典版は1862年、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で、改訂版は1869年にイタリア・ミラノのスカラ座にて初演された。今日演奏されるのは殆どが改訂版による。また改訂版で挿入された序曲もそれ自体有名で、単独での演奏機会も多い。 『仮面舞踏会』の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ(今日のフィデンツァ)代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた(ヴェルディの農園経営に対する情熱は、余技の域を超えていた)。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、ヴェルディを政治の世界に引き立てた首相カヴールが急逝した1861年頃になると、ヴェルディは新作作曲の機会を模索し始めたと思われる。 1861年、ヴェルディのもとに、当時のロシアの首都サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場から、新作オペラ作曲の打診がもたらされた。同劇場と契約して活躍していたイタリア人名テノール、エンリーコ・タンベルリック(Enrico Tamberlik リバス公のこの戯曲は1835年、マドリードで上演され、スペインで大評判、あるいは大スキャンダルとなった話題作であった。カラトラーバ侯爵の美しい娘レオノーラはインカ人の血を引く主人公ドン・アルバロとの恋が認められず、侯爵はアルバロの短銃の暴発で死亡、侯爵の2人の息子ドン・カルロス、ドン・アルフォンソ兄弟が、父の復讐のためアルバロを付け狙う。カルロスはイタリア戦線の陣中で、アルフォンソは修道院でアルバロに返り討ちに遭い、女主人公エレオノーラは絶命寸前のアルフォンソの刃に倒れ、アルバロは酷い運命を呪って崖から身を投げて自殺する、つまり主要登場人物が全て死ぬという、当時としては陰惨極まりない劇であったこと、そしてアルバロの最期の言葉が「自分は地獄からの使者だ、人類は皆滅びるがよい」という冒?的なものだったことが議論の的となった。 イタリア語への翻訳は1850年に出版されており、ヴェルディが読んだのはこのイタリア語版であったと考えられる(彼は母国語以外ではフランス語を解したものの、他の外国語は不得手であった)。実は既に1852年と1856年の2回、ヴェルディはこの戯曲をヴェネツィア・フェニーチェ劇場のための新作として検討したことがあったが、いずれの場合も厳しい検閲を考えて作曲を見送っていた(その結果『椿姫』、『シモン・ボッカネグラ』がそれぞれ誕生している)。これまで母国での上演作品で散々検閲に悩まされてきたヴェルディにとって、先述通り、検閲上の心配が低いと考えられたロシアで(イタリアでは上演許可がおりにくいような)冒険的新作を発表したい、というのも自然な考えだっただろう。 台本作家としてヴェルディが選んだのはフランチェスコ・マリア・ピアーヴェであった。ピアーヴェはヴェルディと組んで直近では『椿姫』、『リゴレット』などの傑作を生み、最も気心の知れたパートナーであったし、原作の本質を損なわずに台本化する手腕からヴェルディの信頼は篤かった。またピアーヴェはヴェルディよりやや年長ながら温厚な人物であり(「運命の力」作曲当時はピアーヴェが1860年にヴェルディの推薦でフェニーチェ劇場からスカラ座舞台監督に移籍したばかりという事情もあって)、いつも台本作成に細かく干渉してくるヴェルディの作業手法に追随しながら、ヴェルディの音楽的意図に沿った台本を準備できる貴重な適任者といえた。 1861年7月頃から台本執筆に取りかかったピアーヴェは基本的には原作の筋書を忠実に追った台本を作成、問題となるかも知れない最終場面でのアルヴァーロの言動もそのまま採用され、彼は修道院長に「馬鹿野郎」(Imbecille )と言い放ち、例の「人類は皆滅びろ」も叫んで断崖から投身することになった。唯一最大の改作点はカラトラーヴァ侯爵の息子役2人をドン・カルロに一本化したことであって、これは作品上、主役たるアルヴァーロに見劣りしない歌手を2人確保するのは困難だろうと歌手数の節約を図った、上演においての現実的な理由と思われる。この改作もあって、オペラではアルヴァーロとカルロとの最初の決闘は兵士が止めに入って終了する展開になり、アルヴァーロが修道院に入った理由が希薄になる(原作でのアルヴァーロはまずカルロを殺したために修道院に入っており、原作でのアルヴァーロのこの行動の方が比較的納得しやすい)という物語構成上の弱さも指摘される仕上がりとなった。 一方、軍営地のシーン(現行版では第3幕第2場後半)を拡充するために、オーストリア継承戦争を扱っているシラーの戯曲『ヴァレンシュタインの陣営』(Wallensteins Lager )での戦陣描写を借用することとなり、ヴェルディは1861年8月末までにシラーのイタリア語版翻訳者アンドレア・マッフェイ(Andrea Maffei ヴェルディは1861年11月末頃にオーケストレーションを除いてほぼ全体を完成(ティート・リコルディ宛11月22日付書簡による)、初演の監督のため、ヴェルディは12月に妻ジュゼッピーナを伴い、厳寒のサンクトペテルブルクへと旅立った。ジュゼッピーナは事前に大量のイタリア産ワイン、パスタ、チーズ、サラミを買い付け、現地に発送していたという。 ヴェルディは現地で精力的にリハーサル(並行して細部の手直し、オーケストレーション)を行ったが、レオノーラ役予定のソプラノ、ラ・グルア(Emmy La Grua
原語曲名:La Forza del Destino
原作:リバス公ドン・アンヘル・デ・サーベドラ・ラミレス・デ・バケダーノ(Don Angel de Saavedra y Ramirez de Baquedano, Duque de Rivas)の戯曲『ドン・アルバロ、あるいは運命の力』(Don Alvaro o la fuerza del sino )。野営地のシーンはフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『ヴァレンシュタインの陣営』(Wallensteins Lager )よりの借用。
台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ。改訂版ではアントニオ・ギスランツォーニ
初演:1862年11月10日(ユリウス暦10月29日)、ロシア・サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にて
改訂版初演:1869年2月27日、ミラノ・スカラ座にて
作曲の経緯
ロシアからの委嘱エンリーコ・タンベルリック
『運命の力』
作曲作業
「原典版」の完成
ヴェルディはイタリアに戻っても細部の手直しを継続して、いよいよ全曲を完成、1862年9月、再びサンクトペテルブルクを訪れ初演の準備を開始したのだった。初演の延期は歓迎されざる出来事であったが、その延期により結果的にオーケストレーションの十分な検討時間が得られたことはむしろ幸運だったかもしれない。