運命の力
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『運命の力』(うんめいのちから、La Forza del Destino )は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全4幕からなるオペラである。原典版は1862年ロシアサンクトペテルブルクマリインスキー劇場で、改訂版は1869年イタリアミラノスカラ座にて初演された。今日演奏されるのは殆どが改訂版による。また改訂版で挿入された序曲もそれ自体有名で、単独での演奏機会も多い。

原語曲名:La Forza del Destino

原作:リバス公ドン・アンヘル・デ・サーベドラ・ラミレス・デ・バケダーノ(Don Angel de Saavedra y Ramirez de Baquedano, Duque de Rivas)の戯曲『ドン・アルバロ、あるいは運命の力』(Don Alvaro o la fuerza del sino )。野営地のシーンはフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『ヴァレンシュタインの陣営』(Wallensteins Lager )よりの借用。

台本:フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ。改訂版ではアントニオ・ギスランツォーニ

初演:1862年11月10日ユリウス暦10月29日)、ロシアサンクトペテルブルクマリインスキー劇場にて

改訂版初演:1869年2月27日ミラノスカラ座にて

作曲の経緯

仮面舞踏会』の初演(1859年)から2年が経過し、ヴェルディは作曲をまるで忘れたかのようであった。新たに創設されたイタリア国会において彼はボルゴ・サン・ドンニーノ(今日のフィデンツァ)代表の議員であったし、またサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)の農園に各種の近代的設備を導入する仕事にも忙殺されていた(ヴェルディの農園経営に対する情熱は、余技の域を超えていた)。しかし、まさにその農園改造計画への資金の必要も一因となり、ヴェルディを政治の世界に引き立てた首相カヴールが急逝した1861年頃になると、ヴェルディは新作作曲の機会を模索し始めたと思われる。
ロシアからの委嘱エンリーコ・タンベルリック

1861年、ヴェルディのもとに、当時のロシアの首都サンクトペテルブルクマリインスキー劇場から、新作オペラ作曲の打診がもたらされた。同劇場と契約して活躍していたイタリア人名テノール、エンリーコ・タンベルリック(Enrico Tamberlik、『イル・トロヴァトーレ』の有名なカバレッタ「見よ、恐ろしい炎を」で初めて高音ハイCを挿入したとされる歌手)の息子アキッレ・タンベルリック(Achille Tamberlik)が劇場からの作曲依頼状を持ってイタリアに帰国したのであった。作品の題材および台本作家の選定はヴェルディに一任する、との条件も含まれた魅力的な依頼であり、1861年6月、ヴェルディはマリインスキー劇場と作曲契約を交わした。実態はともかくも農奴解放も行ったアレクサンドル2世治下のロシアは、当時のイタリア各都市より検閲が比較的寛大だったが、「ロシア正教会への批判や、共和政への賛美を主張してはならない」といった制約は存在した。題材の検討に入ったヴェルディは当初、ヴィクトル・ユーゴーの『リュイ・ブラース』(Ruy Blas )を提案したが、王妃と平民の恋が描かれた同作は、帝室歌劇場での上演には過激と見なされて劇場側の賛成は得られず、別の題材を検討した結果、ヴェルディは以前から関心を抱いていた、リバス公ドン・アンヘル・デ・サーベドラ(1791年 - 1865年)の戯曲『ドン・アルバロ、あるいは運命の力』のオペラ化を提案することにし、演目が決定する。
『運命の力』

リバス公のこの戯曲は1835年、マドリードで上演され、スペインで大評判、あるいは大スキャンダルとなった話題作であった。カラトラーバ侯爵の美しい娘レオノーラはインカ人の血を引く主人公ドン・アルバロとの恋が認められず、侯爵はアルバロの短銃の暴発で死亡、侯爵の2人の息子ドン・カルロス、ドン・アルフォンソ兄弟が、父の復讐のためアルバロを付け狙う。カルロスはイタリア戦線の陣中で、アルフォンソは修道院でアルバロに返り討ちに遭い、女主人公エレオノーラは絶命寸前のアルフォンソの刃に倒れ、アルバロは酷い運命を呪って崖から身を投げて自殺する、つまり主要登場人物が全て死ぬという、当時としては陰惨極まりない劇であったこと、そしてアルバロの最期の言葉が「自分は地獄からの使者だ、人類は皆滅びるがよい」という冒?的なものだったことが議論の的となった。

イタリア語への翻訳は1850年に出版されており、ヴェルディが読んだのはこのイタリア語版であったと考えられる(彼は母国語以外ではフランス語を解したものの、他の外国語は不得手であった)。実は既に1852年と1856年の2回、ヴェルディはこの戯曲をヴェネツィアフェニーチェ劇場のための新作として検討したことがあったが、いずれの場合も厳しい検閲を考えて作曲を見送っていた(その結果『椿姫』、『シモン・ボッカネグラ』がそれぞれ誕生している)。これまで母国での上演作品で散々検閲に悩まされてきたヴェルディにとって、先述通り、検閲上の心配が低いと考えられたロシアで(イタリアでは上演許可がおりにくいような)冒険的新作を発表したい、というのも自然な考えだっただろう。
作曲作業

台本作家としてヴェルディが選んだのはフランチェスコ・マリア・ピアーヴェであった。ピアーヴェはヴェルディと組んで直近では『椿姫』、『リゴレット』などの傑作を生み、最も気心の知れたパートナーであったし、原作の本質を損なわずに台本化する手腕からヴェルディの信頼は篤かった。またピアーヴェはヴェルディよりやや年長ながら温厚な人物であり(「運命の力」作曲当時はピアーヴェが1860年にヴェルディの推薦でフェニーチェ劇場からスカラ座舞台監督に移籍したばかりという事情もあって)、いつも台本作成に細かく干渉してくるヴェルディの作業手法に追随しながら、ヴェルディの音楽的意図に沿った台本を準備できる貴重な適任者といえた。

1861年7月頃から台本執筆に取りかかったピアーヴェは基本的には原作の筋書を忠実に追った台本を作成、問題となるかも知れない最終場面でのアルヴァーロの言動もそのまま採用され、彼は修道院長に「馬鹿野郎」(Imbecille )と言い放ち、例の「人類は皆滅びろ」も叫んで断崖から投身することになった。唯一最大の改作点はカラトラーヴァ侯爵の息子役2人をドン・カルロに一本化したことであって、これは作品上、主役たるアルヴァーロに見劣りしない歌手を2人確保するのは困難だろうと歌手数の節約を図った、上演においての現実的な理由と思われる。この改作もあって、オペラではアルヴァーロとカルロとの最初の決闘は兵士が止めに入って終了する展開になり、アルヴァーロが修道院に入った理由が希薄になる(原作でのアルヴァーロはまずカルロを殺したために修道院に入っており、原作でのアルヴァーロのこの行動の方が比較的納得しやすい)という物語構成上の弱さも指摘される仕上がりとなった。

一方、軍営地のシーン(現行版では第3幕第2場後半)を拡充するために、オーストリア継承戦争を扱っているシラーの戯曲『ヴァレンシュタインの陣営』(Wallensteins Lager )での戦陣描写を借用することとなり、ヴェルディは1861年8月末までにシラーのイタリア語版翻訳者アンドレア・マッフェイ(Andrea Maffei)の承諾も得ている。後にピアーヴェが病に倒れた(後述)ことで、この「運命の力」原典版がヴェルディとピアーヴェの事実上最後の共同作業となった。
「原典版」の完成

ヴェルディは1861年11月末頃にオーケストレーションを除いてほぼ全体を完成(ティート・リコルディ宛11月22日付書簡による)、初演の監督のため、ヴェルディは12月に妻ジュゼッピーナを伴い、厳寒のサンクトペテルブルクへと旅立った。ジュゼッピーナは事前に大量のイタリア産ワインパスタチーズサラミを買い付け、現地に発送していたという。

ヴェルディは現地で精力的にリハーサル(並行して細部の手直し、オーケストレーション)を行ったが、レオノーラ役予定のソプラノ、ラ・グルア(Emmy La Grua)の発声障害によりこのシーズンでの初演を断念(ヴェルディは演奏家の質に妥協を許さない性格だった)、帰国することになった。帰路ヴェルディはロンドンに立ち寄り、折からの万国博覧会のための委嘱作品『諸国民の賛歌』(Inno delle Nazioni )を完成させて初演している(これも本来は独唱者としてタンベルリックを念頭において書かれたものだが、契約上の理由から初演時はテノールのパートをソプラノ用に書き直している)。

ヴェルディはイタリアに戻っても細部の手直しを継続して、いよいよ全曲を完成、1862年9月、再びサンクトペテルブルクを訪れ初演の準備を開始したのだった。初演の延期は歓迎されざる出来事であったが、その延期により結果的にオーケストレーションの十分な検討時間が得られたことはむしろ幸運だったかもしれない。


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