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遊歩道や散歩道を意味するプロムナードの様々な用法については「プロムナード」をご覧ください。
フィンランド、タンペレのカウパカトゥの歩道。
道路交通等では車道等に併設され、歩行者の通行のために構造的に区画された道路の部分をいう。一般的に道路の端に設置され、車道より一段高くなっている。広い意味では人が歩く道路全般を指し、遊歩道(プロムナード)や緑道・自然歩道(長距離自然歩道)なども含まれる。 歩道は、古代ローマの時代に既に存在し、馬車と歩行者の分離交通を図るために出現した[1]。馬車の利用が盛んだったヨーロッパには歩車分離の道は古くから存在する。また、古代ローマ・ポンペイの遺跡に段差式歩道の整備例が見られる。このポンペイの段差式歩道の設置の目的はヴェスヴィオ火山から流れ込む雨水の濁流に通行人が飲み込まれない様にするためであったという。歩道の整備が盛んになるのは17世紀以降である。1666年、ロンドンに初めて歩道が設置され、1762年にはウェストミンスター舗装法で管内のすべての道路に歩道を設置することや、歩道の横断勾配などの仕様が定められている。この時代において歩道設置の先進国はイギリスであった。 1782年にはパリにも道の端の部分を一段高くした歩道が出現した。しかし、パリの歩道の設置理由は別のものであった。1184年にフィリップ・オーギュストが、城下の者が糞尿の混じった汚水を道路に捨てることから、その臭いに閉口し侍医のリゴールの意見を入れて石畳の道路を建設した。しかし、石造りの道路がその解決にならずむしろ臭気をひどくしたことから、12世紀の終わりに道路の汚水をセーヌ川に流す下水溝を構築した。しかし、下水溝にも汚水が溜まり夏の日などは臭気がさらに増した。その2世紀後に地下下水道が構築されはじめ、1832年には44キロメートルに延長されたが、家庭のトイレや台所にはつながっておらず、相変わらず人々は汚物を道路に捨てていた。このため、汚物から歩行者を守るために、ロンドンと同様に段差にして一段高い道が歩道としてはじめて道路脇に設置された[2][3]。 日本では、幕末まで車輪のついた乗り物が例外的な存在であり、道が基本的に歩行者のものであったことから、「歩道」という用語自体が近代までなかったものと見られている[1]。また、日本の道路において、歩行者のみが通行できる「歩道」の文化や概念がなかった[1]。日本の道路に歩道が出現したのは、馬車が導入された幕末から明治初期にかけてのことで、開港場につくられた外国人居留地で、最初に歩道が誕生したとの説がある[1]。横浜市ある日本最初の様式公園で、日本のテニス発祥の地としても知られる山手公園は、その周辺遊歩道も日本で最初につくられた遊歩道といわれる[4]。この遊歩道がつくられた経緯は、1862年(文久2年)8月21日に発生した生麦事件で、横浜に居留していたイギリス人のリチャードソンら4人がピクニックで多摩川へ向かった際に、薩摩藩・島津久光の行列の前を乗馬のまま横切り、薩摩藩士一行に切りつけられて殺された事件がきっかけである[4]。各国の領事たちは江戸幕府に対し、安心してピクニックや馬の遠乗りを楽むための遊歩道と公園の設置を何度も求めた結果、幕府は遊歩道と公園の設置を許可し、公園に先立ち石畳の遊歩道が完成した[5]。 また、銀座煉瓦街などは早期の代表例といえる。このほかに、鎖国時代に唯一外国と交流があった長崎は、日本の歩道発祥の地だという説もある[1]。 歩道としての人道が整備されたという古い記録では、1805年(文化2年)に、東海道の京都にある日岡峠 - 大津間で、人が歩く道と車道を区別した道路が建設されたという記録がある[1]。また、1872年(明治5年)に、東京の道路において、馬車道と人道を区別して、その境界に樹木を植えるように御触れが出されていた[1]。 歩道の必要性が認識され始め、本格的に整備されるようになったのは、1903年(明治36年)に自動車が初めて日本に輸入されて以降のことである[1]。
道路交通における歩道ガードレール右側が歩道(左側は車道)
歴史
欧米
日本日本の歩道 (神戸旧居留地)