遊び
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工学用語については「遊び (工学)」を、映画については「遊び (映画)」を、山下智久のアルバムについては「」をご覧ください。

「遊戯」はこの項目へ転送されています。楽曲については「遊戯 (ドビュッシー)」をご覧ください。
ピーテル・ブリューゲル子供の遊戯
1560年に描かれた油彩画で、当時のヨーロッパにおける様々な遊びを網羅しようとした風俗画の傑作。

遊び(あそび)とは、知能を有する動物ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。

遊びは、それを行う者に、充足感やストレスの解消、安らぎや高揚などといった様々な利益をもたらす。ただし、それに加わらない他者にとってその行動がどう作用するかは問わないのであり、たとえ他者への悪意に基づく行動であっても当人が遊びと認識するのであれば、当人に限ってそれは遊びとなる
遊びの語源

中国古代の哲人荘周の言行録である『莊子』には「遊」という字が106回使用されており、中国思想史の上で「遊び」という概念は『莊子』と密接な関係を持っている[1]。『莊子』では、人間の心と世界()を結びつけて、何物にも囚われない主体的で自由な心の在り方を「遊び」と表現した。「遊戯」という言葉の初出として、司馬遷が『史記』老子韓非列傳で荘周を解説する中で綴った「我れ寧ろ汚?の中に游戲して自ら快し」という一文が挙げられる[1]。その後、老荘思想の「遊び」の概念は禅宗仏教哲学へと継承され、形骸化した外物を徹底的に排除する「遊戯三昧」へと展開した[1]。これらの中国における「遊」の哲学は日本の仏教芸術にも影響を与えている。

和語「あそび」の語源について定説というべきものは無いが、大喪儀の際などに(もがり)の神事に従事することを職とした品部である「遊部(あそびべ、あそべ)」[2]古代に存在したことなどを論拠に、その本義を神道の神事に関わるものとする説がある[3]。ただし、遊部を管掌した遊部君はその居住地や氏族の性格から鉱物採集・金属精錬にも従事したと見られため、「遊部」とは「阿蘇部」のことと考えられ、鳴釜神事に仕える吉備の阿曽女や吉備の鬼神である温羅の妻・阿曽媛と同じ、「ア」(接頭語)、「ソ」(金属・鉄)の意味であったと見る説もある[4]漢字の「遊」は、「?」と「ゆれ動く」意と音とを示す「?(ゆう)」によって構成され、「ゆっくり道を行く」意を持つと共に、「あそぶ」意をも表わしている[5]

遊戯(ゆうぎ、wikt)は、第1義に、遊びたわむれること[2][6][7]。第2義には、子供たちが行う、音楽に合わせた踊りや運動であり、美化語で「おゆうぎ」とも言う[6][7]。ただし、「ゆうぎ」と読むようになったのは明治時代以降であり、それ以前は「ゆげ」(ときに「ゆけ」)もしくは「ゆうげ」と読んでいた[3]
「遊び」にかかわる語

遊山(ゆさん[2]、ゆうざん[5])は、他の語義もあるが、一義に、気の向くまま山野に出かけて遊ぶこと[5](現代日本語で言うところの、行楽ピクニックハイキングに近い[5])、一義に、気晴らしに遊びに出かけることを言う。物見遊山(ものみゆさん)は、物見(見物)して遊山すること[6]。気の向くままに見物して遊び歩くこと[6]。春遊(しゅんゆう)は、野外に出かけてを楽しむこと[6]。以下は「遊」の原義に近い「道を行く」意が強まって、遊覧(ゆうらん)は、見物して回ることを、遊歴(ゆうれき)は、をして各地を巡ること[6][7] を、漫遊(まんゆう)は、気の向くままに旅をして各地を巡ること[6][7] を、吟遊(ぎんゆう)は、各地を巡りながら詩歌などを詠むこと[2] を指す。外遊(がいゆう)は、外国を旅すること[2][6][7]、外国に留学すること[6][7]、および、昭和平成時代に見られる用法としては、研究・視察・交渉等々何か重大な目的や使命を帯びて外国を旅することをも意味する。遊学(ゆうがく)は、故郷を離れて他の地域・他国で学問すること[6][7] を意味する。

遊興(ゆうきょう)は、面白く遊ぶこと[2][7]。遊び興じること[2][5][6]。特に、料理屋待合などで酒を飲んだりして遊ぶこと[2][7]。または特に、色事に興じること[6][* 1] を意味する。
人間の遊び無邪気な遊び
シャボン玉を作って遊ぶ少女。このように、美意識好奇心探究心・想像力などといったものが楽しみの動機となっている遊びも多い。他にも例を挙げるなら、初めて磁石を手に入れた子供が身の周りのあらゆる物を「くっつくかどうか」確かめて回るのも、探究心が発露した遊びである。知能で優劣を競う遊び/チェス一方的かも知れない遊び
最上段に示した名画『子供の遊戯』の一部分。これはを引っ張り合う遊びを描いたものと解釈されているが、1人の男の子が集中的に攻められている。作者以外の何人も状況の真相を知り得ないことを前提として、一つの思考実験をするならば、攻められている子がこの状況を遊びと感じていないと仮定した場合、一転して、この光景はいじめの一場面ということになる。

遊びは、それ自体が人間(社会にあるヒト)にとって楽しい自己充足的行為の典型であって、それゆえ古くから多くの遊び論が叙述されてきた[8]。なかでも、オランダ歴史家ヨハン・ホイジンガ(ハイツィンハ)とフランスの思想家ロジェ・カイヨワによる研究が古典的な論考として重要視される[8]


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