逸見政孝
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いつみ まさたか逸見 政孝
プロフィール
愛称いっつみい
出身地 日本 大阪府大阪市阿倍野区
生年月日1945年2月16日
没年月日 (1993-12-25) 1993年12月25日(48歳没)
身長171 cm
血液型B型
最終学歴早稲田大学第一文学部卒業
所属事務所オフィスいっつみい
(現:株式会社オフィスいつみ)
職歴元フジテレビアナウンサー
活動期間1968年 - 1993年
ジャンル報道・情報・バラエティ
配偶者逸見晴恵
著名な家族逸見太郎(長男)
逸見愛 (長女)
出演番組・活動
出演経歴『3時のあなた
FNNスーパータイム
クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!
たけし・逸見の平成教育委員会
FNSの日』など
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年昭和20年〉2月16日 - 1993年平成5年〉12月25日)は、日本フリーアナウンサーテレビ司会者タレント

フジテレビアナウンサー。フジテレビ退社後は、三木プロダクションと業務提携する個人事務所「オフィスいっつみい(逸見の死後オフィスいつみに名称変更)」に所属していた。大阪府大阪市阿倍野区出身。

妻はエッセイストで所属事務所社長だった逸見晴恵。長男はタレント逸見太郎、長女は元女優逸見愛
生涯

父親は広島県尾道市の出身で旧姓は毛利[1][2]、菓子問屋を営んでいた逸見家に養子として入った[1]。父親は長く福徳相互銀行に勤務した[1][2]。母親は大阪の出身[1][2]

子供の頃から映画鑑賞が趣味で、特にチャップリン黒澤明の作品は全て観たという。「この2人に関しては映画評論家の方たちと話してもなんとかなる」と自信を持っていた。

逸見が挙げた日本映画の最高傑作も黒澤の『生きる』だった。フジテレビに入社して間もない頃は、映画番組を担当している先輩アナウンサーのところに映画の試写会の案内が多く届くのを見て「自分もああなりたい」と思っていたという。後年、映画賞の審査員にも起用され、それがきっかけで逸見にも映画試写会の招待状が届くようになって希望は果たされた[1][2]

大阪市立阪南小学校大阪市立阪南中学校を経て、大阪府立阿倍野高等学校に入学。野球好きが高じて硬式野球部に入部したが、家計が苦しくユニフォームが買えなかったことやリトルリーグの経験がなかったことからマネージャーを志願し、辣腕を振るう。マネージャーの仕事が暇になると、放送部をはじめ様々な部活動を掛け持ちしていた[3]関西学院大学の受験に失敗した際、当時付き合っていた女性にふられてしまい「見返してやりたい」という気持ちがあったことと、文化祭の司会や放送部の経験から「自分にもできそうで高収入の仕事」という理由で在京テレビ局のアナウンサーを志す。早稲田大学に進んだのも、アナウンサーになるのに最も有利な大学という判断からだった。逸見の大学時代は学生運動の盛んな時期だったが、就職に向けた準備に追われて目もくれなかったという[1]

1年間の浪人生活を経て、早稲田大学第一文学部演劇学科に入学[4]。大学ではアナウンス研究会に所属。大阪出身であったためそれまでは大阪方言を話していたが、標準語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも標準語で話すようにした。こうした努力が実り、フジテレビのアナウンサー試験では試験官から出身地を確かめられたという程の実力で、フジテレビ入社後には、毎年の新社員研修にて「当社にはアクセント辞典を食べた特異体質の男がいる」と語られるようになる。逸見は自著で「大学時代、(第2外国語で必要だった)フランス語辞典は真っ白だったが、アクセント辞典は真っ黒だった」と語っている。父親に「アナウンサーになりたい」と告げると「お前のやりたいようにやれや」と認められた。

大阪弁を完全に矯正して専ら標準語で話していた一方で[注 1]、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。当時、大阪から東京に進出したばかりで、全国的には無名だったお笑いコンビのダウンタウンなどの若手タレントを可愛がり、プロ野球は当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続けた。関東での阪神の試合には、家族で頻繁に応援に訪れていた。父親・政孝・息子の太郎と親子3代続く阪神ファンだと著書で公言している[2]
フジテレビ時代

早稲田大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともにフジテレビのアナウンサー試験を突破し、大学卒業後の1968年4月、フジテレビに入社。同期入社にはアナウンサーでは松倉、山川建夫小林節子竹下典子、山根佳代子[5]、他職では坂井義則須賀勝彌がいる。

最終面接の際、当時の鹿内信隆社長が「早稲田の文学部から2人受けているか。君、どちらか1人しか受からないとなったらどうするかね?」という質問をした。質問に困り果てた逸見はとっさに「そ、それは困ります」と答え[注 2]、その場にいた重役たちは笑みを浮かべた。


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