進め!電波少年
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この項目では、「進め!電波少年」のタイトルで1992年から1998年1月1日まで放送された番組について説明しています。

1998年1月11日から2002年まで放送された番組については「進ぬ!電波少年」をご覧ください。

本番組を含むシリーズ全体については「電波少年シリーズ」をご覧ください。

進め!電波少年
ジャンルバラエティ番組
構成小山薫堂、海老克哉
そーたに都築浩
田中直人、中野俊成
澤井康成、鮫肌文殊
おちまさと
ディレクター〆谷浩斗、香川春太郎
飯山直樹、中西太
横井仁、飯島冬貴
川端基浩、塩野智章
小笠原豪、山下柚樹
似鳥利行、北村英樹
古立善之篠宮浩司 ほか
演出土屋敏男1993年6月以降P兼任)
出演者松本明子
松村邦洋
ほか(出演者を参照)
ナレーター木村匡也
オープニング「The Wall?長城?(中国語: The Wall?長城?)」(BEYOND
エンディングテーマ曲を参照
製作
チーフ・プロデューサー棚次隆
吉川圭三
プロデューサー篠木為八男
長濱薫
小西寛
土屋敏男
制作THE WORKS
NTV映像センター
零CREATE (全て制作協力)
製作日本テレビ(製作著作)

放送
放送国・地域 日本

笑撃的電影箱時代
放送期間1992年7月5日 - 1994年3月27日
放送時間日曜 22:30 - 23:26の前半

単独番組化から1994年9月[1]まで
放送期間1994年4月3日 - 1994年9月25日
放送時間日曜 22:30 - 22:58
放送分28分

1994年10月[1]から番組終了まで
放送期間1994年10月2日 - 1998年1月1日
放送時間日曜 22:30 - 22:55
放送分25分
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『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年7月5日から1998年1月1日[注 1]まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55[注 2] (JST) に放送された、日本テレビ製作のバラエティ番組である。電波少年シリーズ第1作。
概要

「見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」という3つのコンセプト[4]の下、アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦したテレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。マフィア、暴力団、スラム街までも番組の題材にし、出演者の生命や番組自体の存続にも関わる危険なロケも多かった。

当初『笑撃的電影箱』の第1部としてスタートしたこの番組は、本来はウッチャンナンチャン主演の映画『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[5][6]。同番組の出演者のうち、出川哲朗はアポなしロケに出演していた他、ウッチャンナンチャンも不定期特番の『電波少年INTERNATIONAL』や『いけ年こい年』にゲスト出演している[注 3]
制作の経緯

日本テレビのとある人物が、1990年前後のある時『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)で松本明子松村邦洋の絡みトークを見た際、「この2人の組み合わせは面白い」と感じたことで、本番組のMCとしてこの両名の起用が決まった[7]。一方で、当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、「視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろう」と考えたが、前述の通りMCとしての松本と松村の起用は編成ですでに決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と、後述の顔だけのCG合成を決めた。

構成作家小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言から『怪傑電波芸者』を提案。しかし製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』および『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。

「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年には1月1日に放送されたスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。

CS放送では、CS★日テレにて1996年から2000年9月まで、地上波との同時放送が実施されていた他、2010年3月12日から2017年3月まで日テレプラスでも再放送が行われた。(1997年6月15日放送分まで)さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日の深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。これらの展開に合わせて、電波少年ホームページも2010年3月29日にリニューアルされた。

前述の事情から、再放送では一部カットされている回や欠番になっている回もある。
特徴・内容

スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた[4]。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である[4]。この映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時日本テレビを含めても全世界に数台しか無かったという。

また、VTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触?」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもの[4]で、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。

形式上は松本と松村がMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。


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