週刊現代
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週刊現代
1967年12月14日号の新聞広告
刊行頻度週刊
発売国 日本
言語日本語
出版社講談社
編集長石井克尚
刊行期間1959年3月 - 現在
発行部数357,500[1]部(2022年7月?9月日本雑誌協会調べ)
ウェブサイトhttps://gendai.media/list/author/wgendai
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『週刊現代』(しゅうかんげんだい)は、講談社から発行されている週刊誌である。発行部数38.2万部で『週刊新潮』に次いで業界第3位[2]
概要

週刊新潮』の成功による出版社系週刊誌ブームを受け、講談社第4代社長野間省一が主導して1959年昭和34年)に創刊。講談社にとって、『週刊少年マガジン』に次ぐ、第2の週刊刊行物となる。ヌード劇画などを特徴とするホワイトカラーサラリーマン向け週刊誌というスタイルを築き、同じ音羽グループ光文社が『週刊宝石』、競合の一ツ橋グループを率いる小学館が『週刊ポスト』を立ち上げて追随した。「週刊少年マガジン#1959年 - 1960年」および「週刊ポスト#概要」も参照

表紙には、秋山庄太郎(後に宮澤正明)が撮影した女優や女性タレントの顔写真を用いていたが、2012年からは大小の見出しや写真が並ぶスタイルの表紙に変わっている。競合誌は『週刊ポスト』で発売日が同じことから、店頭ではペアで並べて売られることが多い。

テレビなどのメディアマスコミ関係の批評記事も掲載している(様々なテレビ番組女子アナウンサーなど)。

医療に関する記事、連載も取り上げる事がある[3]

2019年5月から、毎月一週を合併号にすることが発表された[4]
発行部数・実売部数
創刊号は35万部を発行。1967年には100万部を突破し、川鍋孝文編集長時代の1973年に130万部を発行、元木昌彦編集長時代の1995年に150万部を発行して、幾度かの絶頂期を迎えていたが、その後は後退を続け、2005年の発行部数は717,756部と週刊文春週刊新潮に次いで第3位。更に後述するような話題性重視の誌面作りを行っても部数は回復せず、2006年下半期(7月から12月)の平均発行部数が約41万5000部、2007年上半期(1月?6月)はスクープ記事を連発したにもかかわらず、更に減って約34万9000部(実売部数)とのデータが発表されている[5][6]。実売部数においては、1989年には約60万部、1992年には約50万部に減少したが、1995年?1999年の元木編集長時代には約70万部を売り上げた。しかし、2001年には約61万部と1989年の水準にまで下がり、2008年上半期の実売部数は26万4389部に、2008年下半期はさらに約1万5千部減少の24万9931部へと相次いで減少したと発表されている[7][8]
発売日
毎週月曜日に発売。一部地域では日曜日に前倒し発売する地域もあれば、火曜日-水曜日に遅れて発売する地域もある。
価格
創刊時の1959年は30円。2006年現在は350円
歴代編集長

[9]FRIDAY (雑誌)#歴代編集長」も参照

氏名在任期間備考
大久保房男1959年3月 - 1961年7月文芸雑誌『群像』編集長と兼任。後に作家となる。
松井勲1961年7月 - 1964年9月
椎橋久1964年9月 - 1965年2月
牧野武朗1965年2月 - 1967年8月漫画雑誌『週刊少年マガジン』の初代編集長。後に独立してマイヘルス社マキノ出版、わかさ出版を興す。
荒木博1967年8月 - 1969年8月編集長を退任した直後に小学館に移籍して、1969年8月に『週刊ポスト』の創刊(初代)編集長に就任。
名田屋昭二1969年8月 - 1972年8月
川鍋孝文1972年8月 - 1974年4月企画部時代は『週刊現代』を週2回刊行のための準備として『週刊現代』増刊号を手がける。後に『日刊ゲンダイ』創刊を主導し日刊現代社社長・会長を歴任。
名田屋昭二1974年4月 - 1975年9月編集長を解任された川鍋の後任で再登板。
斉藤稔1975年9月 - 1976年9月
鈴木富夫1976年9月 - 1981年4月
伊藤寿男1981年4月 - 1982年4月退任後、写真週刊誌FRIDAY』初代編集長。さらに独立して『週刊テーミス』(現・月刊THEMIS)を立ち上げる。
鈴木俊男1982年4月 - 1983年8月
杉本暁也1983年8月 - 1985年6月
江口拓1985年6月 - 1987年4月
寺島昭彦1987年4月 - 1988年7月『FRIDAY』第2代編集長より異動。
土門康男1988年7月 - 1991年3月
森岩弘1991年3月 - 1993年3月『FRIDAY』第4代編集長より異動。
元木昌彦1992年3月 - 1998年3月『FRIDAY』第5代編集長より異動。「ヘアヌード」という和製英語の産みの親。退任後はWeb現代を手がけ(1999年)、また、市民参加型ニュースサイトオーマイニュースの記者としても活動を始めた。
鈴木哲1998年3月 - 2001年7月『FRIDAY』第6代編集長より異動。
鈴木章一2001年7月 - 2004年7月
出樋一親2004年7月 - 2006年2月『FRIDAY』第10代編集長より異動。退任後『FRIDAY』に復帰し第12代編集長。
加藤晴之2006年2月 - 2008年1月『FRIDAY』第8代編集長を経て、学芸図書出版部担当部長より異動。退任後、総合編纂局へ異動。
乾智之2008年2月 - 2009年5月本誌編集次長から昇格。
鈴木章一2009年6月 - 2012年5月2度目の登板。退任後は第一編集局長兼本誌発行人を経て講談社常務取締役[10]
藤田康雄2012年6月 - 2013年11月『G2』初代編集長から異動。後に『FRIDAY』第16代編集長に就任。
鈴木崇之2013年12月 - 2015年10月本誌編集次長から昇格。
山中武史2015年10月 - 2017年8月本誌編集次長から昇格。
鈴木崇之2017年9月 - 2020年6月2度目の登板。企画部担当部長(部長待遇)から異動。
石井克尚2020年7月 - 2021年11月本誌編集次長から昇格。
片山勇人2021年12月 - 2023年5月本誌編集次長から昇格。
石井克尚2023年6月 -2度目の登板。

主な編集方針・不祥事等
大久保房男編集長時代

文芸雑誌「群像」編集長の経験を持ち、連載小説には石坂洋次郎川口松太郎柴田錬三郎吉行淳之介を起用。創刊時には皇太子の結婚ということもあり就任からしばらくは皇室記事を掲載した。
牧野武朗編集長時代

金と女と出世というサラリーマンの3大欲望とも実益路線とも言われる路線を推進させ、以後の「週刊現代」を初めとするサラリーマン向け週刊誌の基本コンセプトを確立する。「今週の株情報」はヒット企画になり、推奨する銘柄はゲンダイ銘柄とも呼ばれた。1965年には30万部で赤字だった週刊現代を、1966年には65万部に伸ばし、やがて発行部数の首位を「週刊新潮」から奪取した。
荒木博編集長時代

牧野の路線を徹底させて、週刊誌トップの座を安定させるが、ワンマンとも評されて編集部内をまとめきれずに辞職。また、猥褻として警視庁からマークされていた梶山季之の連載小説『ああ蒸発』が会社の上層部によって一方的に打ち切りを余儀なくされた。

講談社を退職した荒木は、小学館に移籍して本誌と同路線の『週刊ポスト』を創刊させる。「ポスト」に読者を奪われた「週刊現代」はトップから転落し、それに代わり荒木の「週刊ポスト」がトップの座に就く。
川鍋孝文編集長時代

毎日新聞社から独立し『TOKYO OBSERVER』を発刊していたジャーナリスト大森実を起用。創価学会池田大作日本共産党不破哲三らへの直撃インタビューが話題を呼んだ。最高発行部数は130万部で、「週刊ポスト」から首位の座を奪取。以後も100万部を維持する。ロングインタビュー路線ではこの他にもフィリピン小野田寛郎少尉を発見した青年へのインタビュー記事が注目された。

1974年(昭和49年)、金大中拉致事件をめぐって韓国政府および当時の大統領朴正煕を批判するキャンペーンを繰り広げる。これに韓国政府が激怒し在東京韓国大使館経由で抗議を受け、川鍋は社長代行服部敏幸との喧嘩の末に編集長を解任される。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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