週刊朝日
刊行頻度週刊
発売国 日本
言語日本語
出版社朝日新聞出版
刊行期間1922年2月25日 - 2023年5月30日[1]
発行部数74,267部(2022年10月 - 12月、日本雑誌協会[2]調べ)
ウェブサイト週刊朝日
『週刊朝日』(しゅうかんあさひ)は、朝日新聞出版(2008年3月までは朝日新聞社)が発行していた週刊誌。1922年に創刊され[3]、『サンデー毎日』(毎日新聞出版)と並び、日本で最も歴史の長い総合週刊誌だったが、創刊101年後の2023年をもって休刊した。数十年にわたり毎週火曜日発売だった(首都圏など)。最盛期には153万9500部の発行部数を記録し、これは漫画誌を除く週刊誌の日本最高記録である。休刊直前の発行部数約7万4千部は『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)に次いで業界第8位だった[4][2]。 朝日新聞社内で『ロンドン・タイムズ』のようなニュース志向、『エコノミスト』のような経済誌、大衆向け情報誌の発行を目指し、1922年2月25日に創刊された[5]。創刊号の表紙はジョゼフ・ジョフル(ジョッフル元帥)の大阪朝日新聞社来訪時の写真だった。創刊当初は旬刊(上・中・下旬刊行)で5・15・25日発売、誌名も『旬刊朝日』だったが、1月遅れで『サンデー毎日』も発刊され、4月2日発売分(5号)から週刊化、誌名は『週刊朝日』に変更された。当時は四六4倍判、36ページ、定価10銭。内容は、創刊から2年半は、誌面をニュース、学芸及び家庭・娯楽、経済記事に三等分していたが、次第に『サンデー毎日』のような生活に関する記事が増える。 1922年7月には初の臨時増刊号『溢るる涼味』を発行。四六4倍判、72ページ、定価30銭で、20万部を即完売した[6]。 経済系週刊誌の『週刊東洋経済』(1895年に旬刊で創刊、1919年週刊化)や『週刊ダイヤモンド』(1913年に月刊誌として創刊、1946年旬刊化、1955年週刊化)の創刊は、週刊朝日やサンデー毎日より古い。 1931年の満州事変勃発以降は、他の右翼報道機関と同様に軍協力の性格を強め、日中戦争などで前線の軍への慰問品となることを目的とした記事も掲載される。1940年から新体制規格としてB5判サイズになる。 1941年秋に編集部を大阪から東京に移転。用紙が逼迫する頃までは、発行部数は35万部程度。1945年の第二次世界大戦終戦直後の時代には、ページ数は24ページ、発行部数は用紙割当て3万5千にヤミ紙を加えて9万5千部となる。 連合国の占領下の1946年から、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}連合国に媚びを売る目的から[要出典]アメリカン・コミックス「ブロンディ」を日英対訳式で連載。1947年10月26日号から、文学者辰野隆による連載対談「忘れ得ぬことども」が好評となり、部数が伸び始める。1948年の太宰治と山崎富栄の情死の際は、7月4日号の誌面ほとんどを山崎富栄の日記全文で埋め、この号は当時の発行部数13万部が3時間で売り切れた。 1950年4月2日号からは吉川英治『新・平家物語』連載が開始され、戦後の週刊誌小説最初のヒットとなる。連載対談のホストは高田保、浦松佐美太郎、獅子文六と続き、1951年から徳川夢声による「問答有用」が人気となった。 1953年には編集長の扇谷正造と編集部が、戦後第1回の菊池寛賞を受賞。この頃は部数が30万部程度だった。この前後に『週刊サンケイ』『週刊読売』『週刊東京 その後は『週刊新潮』など出版社系週刊誌が台頭し、1977年には48万部(日本ABC協会)、現在は27万部弱(マガジンデータ2010[7]による)。新聞社発行週刊誌の中ではトップだが、総合週刊誌としては中ほどの売れ行きである。1988年8月26日号では、上野千鶴子のジェンダー論を取り上げた記事の見出しにおいて「おまんこ」の語が使用された[6]。 1973年3月9日号では「受験生に大もての上智大学三つの秘密」という受験特集を組む。同年3月23日号の「私立大学合格者高校別一覧 同志社大ほか」から毎年恒例の大学合格者ランキングの掲載が始まり、1976年4月2日号からは「東京大学合格者全氏名・出身高校別一覧」という特集が始まったが、「受験競争をあおる」との批判も根強かった。1986年を最後に東大合格速報・合格者全氏名掲載共に中止。その後、1988年には「全国450高校の私大合格者一覧」などの特集を掲載し、1994年と1995年には駿台予備学校のデータをもとに東大前期合格者数の高校別ランキングを掲載。2000年には「東大合格者高校別速報」が復活。2008年以後は東大・京大の合格発表に合わせて発売日をずらす対応を復活させ、2012年3月23日号では26年ぶりに合格者が表紙を飾った[8]。 1993年7月16日号から、ダウンタウンの松本人志によるコラム「オフオフ・ダウンタウン」を連載開始。『遺書』『松本』のタイトルで書籍化され、2冊の累計で400万部以上の記録的ベストセラーになる[9]。 1996年、素人の女子大生をモデルにするなど、「芸能人への登竜門」として注目されていた篠山紀信撮影の表紙が終了し、リニューアルが行われた[10]。 1998年1月18日には「週刊朝日テーマソング」として河北秀也の作詞、菅原進の作曲、ビリー・バンバンの歌唱による「TUESDAY'S LOVE」が発表された。同曲は当時、本誌のテレビCMにも起用されていた。当初は8センチCDで発表され一般発売されなかったが、2009年8月に発売された『40周年記念ベストアルバム テーマ・ソング コレクション』に収録された[11]。 最終ページには1976年1月から山藤章二の風刺漫画「山藤章二のブラックアングル」が掲載されていたが、2021年12月3日号をもって終了した[12]。2023年4月14日号からは傑作選の連載が始まり[13]、同年6月2日号では創刊以来初めて「ブラックアングル」のキャラクターが表紙を飾った[14]。 2023年1月19日、朝日新聞出版は本誌を同年5月末で休刊にすることを発表した[15][16][17]。 朝日新聞出版によると、2022年12月現在、平均発行部数は74,125部であり、朝日新聞出版自体の業績は書籍事業のベストセラーなどにより堅調だが、年々週刊誌市場が縮小していることを挙げている。今後は同じ朝日新聞出版が発行する週刊誌「AERA」とそのウェブ版である「AERA.dot(アエラドット)」の連携強化・ブランディング強化、並びに書籍部門に注力することにしたという。これに伴い、当雑誌の定期購読の新規申し込みも終了された[15]。 『朝日新聞』掲載の「朝日歌壇」にも当雑誌の休刊を惜しむ歌が掲載された[18]。 2023年5月30日発売の「2023年6月9日休刊特別増大号」をもって休刊した[19][1]。最終号の表紙は実際の編集スタッフらが在りし日の編集部を演ずるという異例の写真で飾られた[19]。 この休刊号は売り切れ店舗が続出したことから、週刊雑誌としては極めて異例の増刷・重版が行われ、同6月12日の公式ツイッターには「どうか週刊朝日を覚えておいてください」とのつぶやきを発したほどである[20]。 長年山藤章二が担当し、2021年から松尾貴史に引き継がれていた「似顔絵塾」のコーナーは、ライバル誌の『サンデー毎日』に移籍した。 横尾忠則の連載エッセイ「シン・老人のナイショ話」は、『週刊新潮』に「曖昧礼讃ときどきドンマイ」とタイトルを改め移籍した[21][22][23][24][25]。 また今後、別冊や増刊号の類は『週刊朝日ムック』(朝日脳活マガジンハレやか、小説トリッパー、司馬遼太郎シリーズ、歴史道他)や『AERA増刊号』(季刊サザエさん、甲子園特集他)などの形で継続発行する[26]。 休刊10カ月後の2024年3月、101年間の通巻5843号から選りすぐった記事を再録した書籍『週刊朝日101年史』を刊行[27]。開高健「ベトナム戦記」などを担当した元編集長永山義高、司馬遼太郎「街道をゆく」の最後の担当者村井重俊らが寄稿し、元副編集長の岩田一平が編集した。予約した人だけの限定販売だったが、好評につき予定外の重版をした。 100号ごとの節目の号は以下のとおり[28](別冊や増刊を含む通しの号数)。
歴史について
創刊
第二次世界大戦終戦まで
占領下
高度経済成長期-バブル崩壊後
休刊について
主な企画、主催について
1931年、500号記念として「ミス・ニッポン」を公募し、ミス1人・準ミス9人を選出(1950年開始のミス日本[注 1]とは異なる)。
1949年、懸賞小説「百万人の小説」を募集(発表は1950年)。特選は深安地平、他に優賞に五味川淳(五味川純平)、入選に南条道之介(南條範夫)、松本清張がいた。
1953年-1957年、日本各地のルポタージュ記事「日本拝見」を連載。主執筆者に大宅壮一、浦松佐美太郎、花森安治、他に臼井吉見、伊藤整、中野好夫、林房雄、今日出海、中島健蔵、小林秀雄などを起用。途中「日本断面」「新・日本拝見」とタイトルを変えて、190回、3年7か月の長期連載となった。
1957年-1958年、「日本拝見」に続いて大宅壮一を執筆者として、神武景気に向かいつつある日本の各企業をルポする「日本の企業」を連載。68回に渡る掲載となった。
1958年-1959年、推理小説誌『宝石』と共同で短編小説コンクールを開催。第2回までで佐野洋、黒岩重吾、笹沢佐保らが作家デビューした。
1964年、ソ連のガガーリンによる人類初の宇宙飛行の際に、臨時増刊号を発行して宇宙特集を行った。星新一によるショートショート3編などを掲載した。
1993年から将棋の棋戦「富士通杯達人戦」を主催。
節目の号について
1号 - 1922年2月25日号
100号 - 1923年12月16日号
200号 - 1925年9月27日号
300号 - 1927年7月3日号(七月特別増大号)
400号 - 1929年4月14日号
500号 - 1931年五百号記念号(大懸賞“ミスニッポン”。21世紀初頭の週刊朝日でいう「別冊」に該当する[28])
600号 - 1932年10月16日号(十月第二増大号)
700号 - 1934年7月1日号(七月増大号)
800号 - 1936年3月1日号(創刊十五周年記念特別号)
900号 - 1937年10月31日号
1000号 - 1939年7月2日号(創刊一千号特別増大号)
1100号 - 1941年3月30日号
1200号 - 1943年1月17日号
1300号 - 1944年12月24日号
1400号 - 1946年11月24日号
1500号 - 1948年10月10日号
1600号 - 1950年8月13日号
1700号 - 1952年6月15日号
1800号 - 1954年4月18日号
1900号 - 1956年3月18日号
2000号 - 1958年1月26日号
2100号 - 1959年11月8日号
2200号 - 1961年9月1日号
2300号 - 1963年6月28日号
2400号 - 1965年4月9日号(陽春増大号)
2500号 - 1967年2月3日号(〈第2500号〉記念増大号)
2600号 - 1968年11月2日号(増大号)
2700号 - 1970年9月25日号
2800号 - 1972年7月28日号
2900号 - 1974年4月30日増刊号(まんが朝日74年 春)
3000号 - 1976年2月20日号(創刊三〇〇〇号記念)
3100号 - 1977年11月18日号
3200号 - 1979年8月15日臨時増刊号(第61回全国高校野球選手権 甲子園大会号)
3300号 - 1981年5月29日号
3400号 - 1983年3月4日号
3500号 - 1984年12月7日号
3600号 - 1986年9月15日増刊号(大学をどう選ぶか'87)
3700号 - 1988年7月1日号
3800号 - 1990年4月20日号
3900号 - 1992年2月28日号(増大号)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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