週刊少年ジャンプ編集部(しゅうかんしょうねんジャンプへんしゅうぶ)とは、株式会社集英社にある、日本の週刊少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』の編集を専門に行う部署である。 集英社内においては第三編集部内の一部署である。少年漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』(以下『WJ』)の編集や『WJ』作品のアニメ・ドラマなどの二次派生作品の監修なども行う。最高部数は653万部を記録し、漫画雑誌のみならず、日本における定期刊行物で最も高い部数を誇る[注釈 1]。売上が落ちた1996年以降も安定して300万部弱を売り上げるなど、名実ともに集英社の看板雑誌である。 元々、集英社には創業以来から少年漫画としては月刊誌『少年ブック』があったが、月刊誌ということもあり、『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』、『週刊少年キング』に比べると劣勢が続いていた。これを挽回するために、『少年ブック』の当時の編集長長野規は週刊雑誌刊行の道を探す。しかし当時の集英社会長であり、集英社の親会社小学館社長の相賀徹夫が『サンデー』のライバル誌となる週刊漫画雑誌の刊行を渋っていたため、実現には相賀や当時の集英社社長陶山巌の度重なる説得が必要であった。 1968年、こうした努力により、隔週誌という条件付けで相賀も渋々承諾した。ところが最終的には、相賀の意向により、隔週ではなく月2回刊行になった。隔週ならば発刊曜日が月5日あるときは月3部刊行となるが、月2回刊行ならば発刊曜日に関わらず、月2回の発行になる。 新雑誌名が『少年ジャンプ』(後の『WJ』)に決まり、1968年7月11日に創刊号発行。 編集長1人をトップに、副編集長3人、班長、平社員で構成されている。班制度をとっており、各班の班長が平社員をまとめている。『WJ』の巻末コメントは班員毎にまとまっており、毎週コメントされる。副編集長以上はコメントしない。「少年漫画」の編集者であることから「少年の心を分かることが大切」としており、現在にいたるまで男性社員のみで構成されており、女性が一人もいない[1]。この事実はジェンダー平等の観点から何度か問題提起されたことがあるが、集英社は「女性を(意図的に)排除はしていない」と説明しており、少年ジャンプ+など系列誌には女性編集者が配属されているという[1]。 創刊当時はアルバイト編集者もいたが、現在の編集者はすべて集英社の正社員である。ただし、編集以外の業務(アンケート集計や事務作業など)では現在も派遣社員やアルバイトが雇用されている。 雑誌掲載時のアオリ文を考え、アニメの監修などを漫画家に変わって行うなど他の仕事もある。看板漫画になると、アニメなど二次創作関連の監修を行う専門のメディア担当につくこともある。 他にも『WJ』内の懸賞の商品を買ったり、『WJ』内の企画に出演したりすることもある。 1968年(昭和43年)、少年ブック編集長だった長野が異動し、少年ジャンプ編集部の初代編集長になったことで歴史がスタート。他にも少年ブック編集部からは中野祐介が副編集長待遇、西村繁男と加藤恒夫 長野は苦肉の策として、集英社外のフリー編集者を使うことを提案。応募した桜木三郎 正社員5名とアルバイト編集者3名の計8名が創刊時の編集部だった。創刊当時は月2回発刊で、3名加わったとは言え、人材不足は未だ解消されていなかった。 1969年(昭和44年)、ライバルである講談社が幼年向け月刊誌『ぼくら』を『週刊ぼくらマガジン』として週刊化する方針が伝わる。これを受けて小学館ではそれに対抗する新しい週刊誌の発行を模索するが、当時の小学館には全くの新雑誌を創刊できる余力がなかったため、同じ一ツ橋グループである集英社の『少年ジャンプ』を週刊化して対抗することを決定。これにより少年ジャンプは当初の目標だった週刊誌化を果たす。 これに伴い『少年ブック』は休刊が決まり、少年ブック編集部は少年ジャンプ編集部に統合される。少年ブック編集部の編集者と宣伝課からの6名の異動により、8名だった少年ジャンプ編集部は14名になった。この時加わったメンバーには前年1968年に集英社に入社および少年ブック編集部配属になり、後に『トイレット博士』を担当する角南攻もいた。他週刊少年誌の編集部は当時でも20名以上で構成されており、14名と増えても以前と変わらず人材不足の状態であった。実際に2009年5月時点のWJ編集部の人数は22名とその後増えている。 また、『少年ブック』の実質的な後継となる『別冊少年ジャンプ』(後の月刊少年ジャンプ。以下『MJ』)も創刊した。 長野体制において、専属契約制度やアンケート至上主義も考え出されるなど、基本となる構造はこの時期に培われた。詳細は「週刊少年ジャンプ#特徴」および「週刊少年ジャンプの新人漫画賞#概要」を参照 前述のとおり、創刊時より編集助手を使っていたが、これはWJ編集部に限ったことではなく、多くの編集部で非正規労働者が存在していた。中には正社員と全く同じ仕事をする者もいたが、給与や福利厚生は正社員のものより低待遇のものであった。正社員の労働組合は結成されていたが、非正規労働者のための組合はなかった。1969年頃、非正規雇用者の待遇改善を求める動きが高まって「集英社臨時労働者組合」が結成された。そのトップである初代委員長は遠崎であった。西村は遠崎と個人的に親しかったこともあり、長野から組合崩しの密命を受けて説得を試みるが失敗する。 組合運動が本格化すると、集英社は非正規雇用者の正規社員登用試験を組合の決起集会 1970年(昭和45年)4月の定期採用で後藤広喜、中野和雄の2人が集英社に入社し、WJ編集部に配属。正式にWJ編集部に新人が配属されたのは2人が初である(角南は少年ブック配属で掛け持ち)。同期入社であることから、2人はライバルとして編集長の地位を争っていく。後藤は『ドーベルマン刑事』などのシリアス方面で、中野は『キン肉マン』に代表されるギャグ方面でヒット作を送り出していく。 編集長が中野祐介に移ると、副編集長は西村と阿部高久 1976年(昭和51年)4月の定期採用では鳥嶋和彦が集英社に入社し、WJ編集部に配属。鳥嶋は後に鳥山明、桂正和を発掘し敏腕編集者になる。 この年半ばに中野が病気で倒れ入院、胃の摘出手術を受ける。年末に中野が復帰するが、病気療養の兼ね合いもあり、以後実質的な采配は副編集長の西村が執ることになる[2]。 西村体制においては、堀内が担当を務める秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』がスタート。アンケート至上主義の『WJ』において連載継続40年、単行本全201巻発刊を果たし、後の『ドラゴンボール』と並んで雑誌全体を代表する作品となった。 1977年(昭和52年)4月に根岸忠
概要
編集部の位置づけ
設立経緯
仕事
部署構成など
業務
漫画編集
連載漫画
『WJ』内の連載漫画の編集業務が主な仕事である。基本的に1作品に1人の担当がつく。編集者によっては複数の作品を同時進行で担当する場合もある。また、既に連載が終了し次回作の制作に入っている作家にも担当者が付けられる。漫画家本人と打ち合わせをし、作品の内容や方向性を二人三脚で決める。漫画の編集の仕方は、各編集者に任せられており、作品に大きな影響を与える。長期連載作品では途中で担当者が交代するのが慣例で、引継ぎの際に前任者が後任者に編集方針を指導することがないため作品の傾向がガラリと変わって読者アンケートの成績を大きく落とし、連載打ち切りにつながったケースもある(逆に人気の上がるケースもある)。詳細は「週刊少年ジャンプ#編集者」および「打ち切り#週刊少年ジャンプの場合」を参照
新人漫画
将来『WJ』で連載作家として活躍し得る人材を発掘するため、新人漫画家の持ち込みを担当する。より良い作品にするため、アドバイスをしたりもする。『WJ』単独主催の新人賞では、連載作家に交代で審査員を務めてもらっているとはいえ編集部員の判断が選考のかなりの部分を占めるほか、『WJ』『SQ』合同主催の形を取る『手塚賞』『赤塚賞』でも選考に関わる。「JUMPトレジャー新人漫画賞#概要」および「ジャンプ十二傑新人漫画賞#概要」も参照『WJ』単独主催の新人賞で佳作以上を受賞した者に対してはその後、誌面でのデビューに向けて専属契約の手続きや執筆指導など深く関わっていく。『手塚賞』『赤塚賞』で佳作以上を受賞した者については、決定後に『WJ』『SQ』のどちらが担当するか部内で調整する。部内会議に出して連載登用が決定した場合は基本的にそのまま担当になるが、他作品の担当などの兼ね合いから連載時に担当者が変わる場合もある。詳細は「週刊少年ジャンプ#新人の登用と専属契約制度」を参照
『WJ』から独立した『SQ』でも同様に単独主催の新人賞が展開されている。詳細は「ジャンプスクエア#新人漫画家の募集企画」を参照
その他
歴史
長野規体制
少年ジャンプ創刊まで
月2回発刊誌から週刊誌へ
非正規労働者による労働運動
生え抜き社員の登場
中野祐介体制
西村繁男体制
主な出来事
1979年(昭和54年)4月の定期採用で堀江信彦、椛島良介が集英社入社、WJ編集部に配属。椛島は麻布→早稲田と完全に西村の後輩であった。5月、第三編集部部長であり2代目編集長の中野祐介が編集長となり『ヤングジャンプ』(後の『週刊ヤングジャンプ』。以下『YJ』)を創刊。これに伴いWJ編集部にも編集者の協力を求められ、中野祐介の指名で角南と山路則隆
の2名がYJ編集部に異動した[3]。詳細は「週刊ヤングジャンプ#歴代編集長」および「角南攻#来歴」を参照1980年、鳥山の『Dr.スランプ』がアニメ化にも伴って大ヒット。メディアミックスが図られていくことになる。西村自身はブック編集部時代の経験から、漫画家・編集部の意思が反映されないアニメ化に抵抗感があったため、アニメ化に際しては編集部による監修を行った。また他にも『キャプテン翼』『キン肉マン』など連載漫画のアニメ化→ヒットが相次ぎ、テレビ局などから連載漫画の青田買いを行う動きが出てきたことから、「連載が1年未満の作品のアニメ化は許可しない」方針を打ち出した[4]。
1981年(昭和56年)年の定期採用では茨木政彦・高橋俊昌が入社。茨木はえんどコイチ・小畑健・森田まさのりらを、高橋は冨樫義博・まつもと泉らを発掘した。
1982年7月、西村は新人育成を目的として『フレッシュジャンプ』(FJ)を創刊。その一方で、『東大一直線』の小林よしのりと対立し専属契約を打ち切らせた。詳細は「小林よしのり#東大一直線とその後の苦闘」および「東大一直線#執筆の背景」を参照 競合の『サンデー』に連載された『うる星やつら』『タッチ』の相次ぐヒットにより、1980年代初頭はラブコメブームが起こっていた。当時のWJ編集部においても編集者たちはラブコメを意識した漫画を推したり、既存の連載作者にも例え非ラブコメ作品であってもキャラクター同士の恋愛関係といったラブコメ的な内容を描かせるケースまであった。詳細は「鳥嶋和彦#編集者としての功績」および「Dr.スランプ#作品解説」を参照 西村は"少年"漫画であることを重視し、『WJ』では意識的にラブコメ路線の排除をねらったが、高橋が担当したまつもとの『きまぐれオレンジ☆ロード』などヒット作品も生まれたほか、堀江担当の北条司作品にもラブコメ的な要素が含まれており徹底は出来なかった。現在でも作中で恋愛的な内容を意識して描かないようにしている作家がいるが、西村が『SJ』に転出した後は、ラブコメ路線どころか少年誌における性描写の限界に挑んだことすらあった。詳細は「電影少女#内容のリアリティ」および「I"s#その他」を参照「ONE PIECE#作者のポリシー」も参照 なお、『MJ』ではこの頃からお色気路線が前面に出るようになり、販売的にも全盛期に差し掛かっていた。詳細は「お色気漫画#概要」および「月刊少年ジャンプ#概要」を参照 西村の編集長昇格に伴い、加藤が副編集長になる。このまま順当に行けば加藤が編集長だが、中野祐介も西村も加藤の編集長就任には否定的だった。加藤は細かすぎる性格であり、漫画家とスタッフの個性が潰されると考えたためだった。 結果として、初の生え抜き社員の後藤、中野和雄が4代目の編集長候補となる。2人は入社から切磋琢磨してきて、両者ともに副編集長までは同時に昇進した。しかし、正反対の性格の副編集長が2人いることで、編集部内の意思統一が難しくなった。西村は後藤に編集長を譲る考えの元、その前準備として、中野和雄を『FJ』の副編集長へと変える。なお、長野は2人を1年交代で担当を入れ替えて、その実績によって判断すべきと考えていた。次期編集長の実質上の決定は余計に2人の対抗意識を煽ることになり、後に中野和雄は『FJ』成功のためにWJ連載中の漫画家を連載させるなど、新人育成という当初の目的から外れていく。1988年(昭和63年)12月、西村は『FJ』休刊を決断。中野和雄は子会社に左遷された。詳細は「中野和雄#来歴・人物」を参照 1986年(昭和61年)、8年間編集長を務めた西村が編集長から退き後藤が編集長に昇格。西村は発行人に昇格し、さらに『スーパージャンプ』(SJ)を立ち上げ同誌の編集長となった。 1987年(昭和62年)、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』が椛島担当で連載開始。
ラブコメの排除
第4代編集長争い
後藤広喜体制
Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef