連合国_(第二次世界大戦)
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第二次世界大戦における連合国(れんごうこく、聯合国(.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:聯合國)、: Alliesまたは: United Nations(現在の国際連合と同名))とは、枢軸国ドイツイタリア日本など)と敵対した国家連合。具体的にはアメリカソビエト連邦中華民国イギリスフランスなど26カ国が該当する[1]

第二次世界大戦における連合国は、1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻にはじまる欧州戦線でドイツの陣営と戦った国々と、1941年12月8日の日本によるマレー作戦及び真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争において日本の陣営と戦った国々がある。このうちイギリス、アメリカ合衆国、中華民国、オーストラリアを含む大部分の諸国は参戦の時点から終戦までの期間に日独両陣営と戦争状態にあったが、日ソ中立条約によってソビエト連邦が対日戦に参戦したのは1945年8月のことである。日ソ中立条約は、法的有効期間中にソ連によって破棄された[2]

ドイツやその他の枢軸国から攻撃を受けるなどし、領域を喪失した政府が亡命政府となり、戦争に参加している。戦後これらの亡命政府の多くは帰国したが、ソ連の影響力が強い地域の亡命政府は復帰することが出来ず、戦後まもなく亡命政府の継承政権がソ連の傀儡共産主義政府に打倒されて衛星国となった。統一前の東ドイツことドイツ民主共和国ハンガリーブルガリアルーマニアなど枢軸国だけではなく、連合国側であったポーランドブルガリアチェコスロバキア東アジアモンゴル人民共和国などがソ連の衛星国と呼ばれた[3]

一方でユーゴスラビアパルチザンなど交戦当時は国家を代表する存在ではなかったが、1945年3月、チトーを首班とし、亡命政府の代表3人を含むユーゴスラビア民主主義連邦臨時政府が形成され、国際的承認を得たことで、国家代表政府として連合国の政府として承認される事例もあった[4]

連合国は戦後処理問題などで比較的緊密な連絡を取った。現在の国際連合 (United Nations) は、戦争中の連合国協議によって生まれた国際機関である。日本では国際連合と訳されているが、原語に忠実に考えれば連合国と訳すのが妥当である。現国際連合は連合国諸国が原加盟国となっている。特に中心となったアメリカ合衆国・イギリス・ソビエト連邦(継承国 ロシア)・フランス・中華民国(継承国 中華人民共和国)は、国際連合憲章によって安全保障理事会における「常任理事国」の地位が与えられ、拒否権などの特権を有するなど、国際社会において強い影響を持つこととなった。変更するには全常任理事国の同意による改正が必要である[5]

第一次世界大戦においては、英仏米側参戦国を、英語でAllied and Associated Powers(協商および連合国)といい、これに対する訳語としても日本語では連合国があてられている[1]
呼び方と変遷

本来英語では第一次世界大戦の連合国と同じく「The Allies」(連合国)と呼んだが、1941年12月にフランクリン・ルーズベルトが「United Nations」(国家連合、合衆国)と呼び、1942年1月1日の連合国共同宣言以来この呼び名が広まった。
歴史
前史1939年5月15日、ポーランドのタデウシュ・カスプシツキ将軍(中央)とフランスのモーリス・ガムラン将軍(右)。「戦間期」および「第二次世界大戦の背景」も参照

第一次世界大戦後、イギリス、フランス、大日本帝国、アメリカ、イタリア王国の五大国を代表とする戦勝国は新たな安全保障体制を構築しようと国家間での連携を強めていった。大規模な国家連携の試みである国際連盟が設立されたのもこの一環であった。またドイツを警戒するフランスはドイツの周辺国との連携を強め、チェコスロバキアルーマニア王国ユーゴスラビア王国小協商への接近や、1921年にはポーランドとの同盟(en)を結んだ。1925年にはロカルノ条約が結ばれ、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの連携が強められる事となった。一方でアメリカ合衆国はモンロー主義が台頭し、孤立主義の風潮が高まったため国際連盟にも加入しなかった。

1933年、ドイツでナチ党が権力を掌握して再軍備を始め、国際連盟の脱退などロカルノ体制を破壊する動きを見せた。1935年、フランスはドイツを警戒してソ連と仏ソ相互援助条約を締結したが、ドイツはこれを口実としてラインラントに進駐し、ロカルノ体制は事実上崩壊した。しかしその他の周辺国はこれに宥和政策で応えた。イギリスは英独海軍協定を締結してドイツ再軍備を容認し、ポーランドもドイツ・ポーランド不可侵条約を締結して対チェコスロバキア政策などで共同歩調をとった。

またアジアでは、1931年に勃発した満州事変とその後の1933年の日本の国際連盟脱退以降、中国大陸での利権をめぐり日本とイギリスやアメリカとの間で緊張が増した。これを受けて日本とドイツ、イタリアが急速に接近し、1936年には日独間で防共協定を締結、さらに1937年には日独伊防共協定に発展したことで、これらの3国は事実上の同盟関係を結ぶに至る。


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