連合国の失われた大義
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連合国の失われた大義(れんごうこくのうしなわれたたいぎ、:Lost Cause of the Confederacy)、または単に失われた大義(The Lost Cause)とは、アメリカの偽史[1][2]否認主義的なイデオロギーであり、アメリカ南北戦争中の連合国の大義は正義と英雄的なものであったと主張するものである。このイデオロギーは、戦争前の南部の美徳を支持し、戦争を主に南部の生活様式を保存するための戦い[3]、または圧倒的な "北部の侵略"に直面して "州の権限"を守るための戦いと見なしている。同時に、「失われた大義」は、戦争への進展と勃発における奴隷制の中心的な役割を最小限に抑えるか、あるいは完全に否定している。
歴史

南部の白人の多くは、1865年の敗戦によって、3通り、すなわち経済的、感情的および心理的に打撃を受けた。南部白人はその敗北を自分達の力の及ばない要因や、彼等の英雄や与した者達の裏切りのせいにすることで慰安を求めた。多くの南部人はその生活様式が北部によって混乱させられたと感じた[4]

「失われた大義」という言葉は、歴史家エドワード・A・ポラードの1866年の著書『失われた大義:アメリカ連合国の戦争に関する新しい南部の歴史』という表題で初めて現れた[5]。しかし、「失われた大義」を永続する文学と文化の現象として確立させたのは、ジュバル・アーリー元中将によって南部歴史協会のために書かれた記事だった。

アーリーがその見解について最初に思いついたのはロバート・E・リー将軍その人からだった可能性がある。リーは北バージニア軍に対する解散命令を発したとき、南軍が敵に回して戦った「圧倒的な資源と勢力」について語った。アーリーに宛てた手紙では、その軍隊がユリシーズ・グラント中将の軍隊と対抗した1864年5月から1865年4月まで(オーバーランド方面作戦からピーターズバーグ包囲戦まで)の敵軍勢力について情報を求めていた。リーは、「私の唯一の目的は、もし可能ならば、事実を後世に伝え、我々の勇敢な兵士達を正当化することである」と書いた[6]。リーは別の手紙で、「北軍に破壊された個人資産などとその数に関する統計」を全て求めたが、これは両軍勢力の違いを示そうとしたからであり、「我々が戦った戦争の勝算を世界に理解させるのが難しい」であろうと考えたからだった。敗北の責任についてリーを非難した新聞の記事を引用し、「私は適切に注釈しようとは考えなかった、すなわち私の言葉や行動を誤って記述されていても正そうとすら考えなかった。我々は少なくとも暫くは辛抱し耐えるべきだ。...現在大衆の心理は真実を受け入れる準備ができていない」と書いた[6]。これらことの全ては、アーリーと「失われた大義」の著作家達が「19世紀の広い潮流を獲得し、今日まで顕著に残り続けている」主題である[7]

失われた大義の主題はアメリカ連合国古参兵の会や南軍の娘達の会のような戦争を記念する団体に取り上げられ、レコンストラクションを含め、戦後時代における社会と政治と経済の劇的な変化にある程度まで南部人が対応することに貢献している[8]
見解(W・H・F・リー)は、南部だけでなく北部でも、南部が正しいと考えたことのために戦ったという言葉がしばしば使われることに抗議した。彼等は正しいと知っていたもののために戦った。彼等はギリシャ人と同様に、家のために、その地域の墓のために、さらに生まれた土地のために戦った。ニューヨーク・タイムズ
「バージニア師団の年度集会」10/29/1875

失われた大義運動の主要な見解は次のようなものだった。

南軍の将軍、例えばリーやストーンウォール・ジャクソンは南部の高潔さの美徳を代表し、道徳的に低い水準にあると特徴付けられる北軍の将軍達、シャーマン海への進軍や、1864年のバレー方面作戦におけるフィリップ・シェリダンによるシェナンドー渓谷焼き討ちのような屈辱に南部の大衆を従わせた将軍達大半に対比させた。

戦場における敗北は、北部が資源も人力も優越していたので避けられないものだった。

敗北はまた、リー将軍の部下達の一部にあった裏切りと無能の結果でもある。例えばジェイムズ・ロングストリート将軍である(失われた大義は主にリーと東部戦線での展開に焦点を当てた)。

動産である奴隷制の擁護よりも州の権限の防衛が、11の州をアメリカ合衆国から脱退させた主要な大義であり、それが戦争に突き進ませた。

脱退は南部の生活様式に対する北部の文化と経済の攻勢への正当な合憲的反応だった。

奴隷制は恵み深い制度であり、奴隷達はその恵みを与える所有者達に忠実で誠実だった[9]
奴隷達の卑屈な本能によってその運命に満足させ、その辛抱強い労働によってその住まう土地に計り知れない富が与えられた。かれらの土地と人間との強い結びつきによって誠実な奉仕を確保した。...労働と資本がお互いに幸福に依存し合うものではなかった。エデンの園の蛇のように、誘惑者が来て、「自由」という魔法の言葉で彼等を誘惑した。...彼は奴隷達の手に武器を渡し、暴力と流血の行為に合うように謙虚だが感情的な性質を訓練し、それまで恩恵を施してくれた人に打撃を与えるために送り出した。アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィス
アメリカ連合国政府の盛衰 (1881)[10]

失われた大義の最も強力な概念で象徴ともなっているのはロバート・E・リーとピケットの突撃である。デイビッド・ウルブリッヒは「既に戦争中にも崇められていたロバート・E・リーはその後も南部の文化の中で神格化された。その兵士達がどんなに絶望的であろうともあらゆる戦闘で彼に忠実に従う指導者として記憶され、戦争の中から現れて失われた大義の象徴となり、戦前の南部紳士達の理想となり、バージニア州とアメリカ連合国に無私で仕えた栄誉ある敬虔な男ということになった。第二次ブルランの戦いチャンセラーズヴィルの戦いでのリー戦術のすばらしさは伝説的なものとなり、ゲティスバーグの戦いにおける敗北の全責任を認めていたものの、リーは南部人にとって絶対誤らない人であり続け、現代まで歴史家からの批判ですら免れてきた[8]

リーの部下については、ジュバル・アーリーの見解においてキーとなる敵役はジェイムズ・ロングストリート中将だった。アーリーの著作ではゲティスバーグでの敗北責任をロングストリートの両肩にも平等に掛かるものとしており、1863年7月2日早朝にリーに指示されていた攻撃をしなかったことを告発した。しかし、実際にリーはその「年取った軍馬」(ロングストリートのこと)の2日目の行動に一度も不満を表明したことは無かった。ロングストリートは戦後にユリシーズ・グラント大統領に協力し、共和党に入党したために、広く南部の古参兵から非難された。グラントは失われた大義に関する議論を拒絶し、1878年のインタビューでは南部が単に数で圧倒されたという概念を拒否すると言った。グラントは「これは世論が戦争中に形成されるやり方であり、歴史がこうして作られるやり方だ。我々は一度も南部を圧倒したことは無かった。...我々が南部から勝ち取ったものは激しく戦って勝ち取ったものだ。」と主張した。さらに資源を比較するときに、「農園を守り、その家庭を守り、軍隊を支え、実際に予備軍であったという」「400万人の黒人」が南部の資産としてあつかわれていないとも主張した[11]
さらなる展開

失われた大義の精神面で後に明らかにされたこととして、1934年に出版されたダグラス・サウスオール・フリーマンによるリーの決定版評伝4巻本に見ることができる。この注釈が施された伝記でフリーマンは「州間の戦争(南北戦争のこと)に関する他のいかなる非公式史料集よりも貴重で使用されていないデータ」を含んでいると言って、「南部歴史協会誌」とアーリーの功績を認めた[12]。歴史家ゲリー・ガラハーは、フリーマンが「アーリーの言う究極の英雄的人物にたいへん近い者としてリーを解釈することをアメリカ文学の中で固めた」と主張した[12]。この作品では、リーの部下達は戦闘に敗北した誤りについて先ず非難されるべき者とされている。ロングストリートはそのような攻撃に共通する標的とされるが、その他に非難されるべき人物としてリチャード・イーウェル、ジュバル・アーリー、J・E・B・スチュアートA・P・ヒルジョージ・ピケットおよびその他多くの者がリーに対する非難の鉾先を逸らすときに、南部人によってしばしば攻撃され非難されている(前述のように、リーは敗北の全責任を認め、部下の誰をも非難したことは無かった)。

南北戦争の失われた大義という見解は、マーガレット・ミッチェルによる1936年の小説『風と共に去りぬ』や同名の1939年の映画にも影響を与えた[13]


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