日本の政治家逢坂 誠二おおさか せいじ
総務大臣政務官就任に際して
公表された肖像写真
生年月日 (1959-04-24) 1959年4月24日(65歳)
出生地 日本 北海道虻田郡狩太町(現:ニセコ町)
出身校北海道大学薬学部
前職地方公務員(ニセコ町職員)
所属政党(無所属→)
(民主党→)
(民進党→)
(旧立憲民主党(菅G)→)
立憲民主党(近藤G)
称号薬学士(北海道大学・1983年)
薬剤師
公式サイト衆議院議員 逢坂誠二(おおさかせいじ)
内閣総理大臣補佐官
(地域主権・地域活性化及び地方行政担当)
内閣鳩山由紀夫内閣
菅直人内閣
在任期間2009年12月4日 - 2010年9月21日
衆議院議員
選挙区(比例北海道ブロック→)
北海道8区
当選回数5回
在任期間2005年9月12日 - 2012年11月16日
2014年12月15日 - 現職
ニセコ町長
当選回数3回
在任期間1994年11月 - 2005年8月29日
その他の職歴
第2代・第3代 立憲民主党代表代行
(2021年12月2日 - 現職)
第3代 旧・立憲民主党政務調査会長
(2019年 - 2020年)
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逢坂 誠二(おおさか せいじ、1959年〈昭和34年〉4月24日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(5期)、立憲民主党代表代行、立憲民主党北海道総支部連合会代表[1]。姓の漢字は正確には部首が?ではなく?の「逢」[2]。
北海道ニセコ町長(3期)、総務大臣政務官(菅直人第1次改造内閣・菅直人第2次改造内閣)、内閣総理大臣補佐官(鳩山由紀夫内閣・菅直人内閣)、旧立憲民主党政務調査会長を歴任した。 北海道虻田郡狩太町(現:ニセコ町)に生まれる。父親は樺太の旧野田町に生まれ旧恵須取町で育った[3]。母親も他県の出身者で、二人で日用雑貨屋を営んでいた。小学校に上がると父親に命じられ、低学年からヤクルトや牛乳の配達、集金などをし家業を手伝った[4]。1977年に北海道倶知安高等学校を卒業。札幌市の予備校の寮で一浪したのち[5]、1979年に北海道大学薬学部に入学。学業のかたわら音楽活動も熱心に行った[6]。 免疫学の研究者になることを望んでいたが、大学4年生の秋に父親が病気になり、研究職の道を断念[7]。故郷で転勤がない就職先はあまりなく、しかたなく町役場の試験を受ける。1983年3月大学卒業後、4月ニセコ町役場へ入庁[8]し、旧社会党系の自治労に加盟。1984年、薬剤師免許を取得。仕事の合間に、北海道大学や慶應義塾大学の研究室に出入りしながら法律の勉強を少しずつ始めた[6]。 係長をしていた1988年、町長を目指すきっかけとなった黒澤明監督の『生きる』を見る[9]。また同年、「まちで街路整備事業をやりたい」という町民が現れる。町役場とは無関係の自主的取り組みであったが、毎晩のように町民と話し合う生活がそれから6年間続く。情報公開と住民参加の原理の重要性を実感し、町長選挙に出ることを考える。1994年7月、北海道大学の大学院生であった田中秀征衆議院議員の話を聞く機会があり、田中の「僕は選挙弱いんだよね、勝った数より負けた数が多い」という言葉に強く背中を押され[6]、8月にニセコ町役場を辞職。推薦団体はゼロ、支援した町議は一人だけであったが、同年10月16日に行われたニセコ町長選挙で現職の渡辺冨雄を僅差で破り初当選した[10][11]。 1998年、情報公開条例を制定[12]。同年10月、無投票で再選。2000年12月、全国で初めてとなる自治基本条例(まちづくり基本条例)を制定[13]。 町長選挙を直前に控えた2002年9月17日、札幌市の市民グループから翌年の北海道知事選挙への出馬要請を受ける。この申し出を断り、10月に無投票で3選。 3選後の2002年12月20日に連合北海道から、12月27日には市民グループ8団体から、2003年1月22日には民主党から出馬を請われ[14]、動向が注目されるところとなった。同年2月2日、知事選不出馬を正式に表明[15]。2月12日、一連の騒動の責任をとるとして、議長に退職申出書を提出し、ニセコ町長職への辞意を表明する[16]。逢坂は辞職の経緯を理解してもらうための説明会を開くが、会場から「撤回を求める署名を集めたい」との声が上がる。2月17日から21日まで署名活動が行われ、15歳以上の町民の77%にあたる3000人分の署名が届けられた[17]。
来歴
生い立ち
ニセコ町長へニセコ町長在任中、国土交通省主催の講演にて公表された肖像写真