「速見領」とは別人です。
はやみ りょう
速水 亮
本名越坂部 茂
別名義
炎 三四郎(旧芸名)
豊田 正文(同上)
三崎 玲資(同上)
生年月日 (1949-11-14) 1949年11月14日(74歳)
出生地 日本・神奈川県横浜市
出身地 日本・千葉県君津市
身長174 cm[1]
血液型A型[2]
職業俳優、ナレーター
ジャンル映画、テレビドラマ、舞台
活動期間1969年 -
活動内容
1969年:大映ニューフェイス
1974年:『仮面ライダーX』
配偶者美山尚子(元女優)
著名な家族香坂優介(長男、俳優)
事務所オールアウト
公式サイト ⇒公式プロフィール
主な作品
テレビドラマ
『仮面ライダーX』
『氷炎 死んでもいい』
映画
『ガメラ対大魔獣ジャイガー』
『平成ライダー対昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』
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速水 亮(はやみ りょう、1949年11月14日[2][3][4][5] - )は、日本の俳優。本名、越坂部 茂(こさかべ しげる)[4][6]。旧芸名、炎 三四郎[5][7]、豊田 正文[5][7]、三崎 玲資[5][7]。
千葉県君津市出身[3][8](出生は神奈川県横浜市[4])。木更津中央高等学校(現、木更津総合高等学校)[4]中退[9][8][5]。妻は元女優の美山尚子[8]、長男は俳優の香坂優介[8]。オールアウト所属。 6歳まで横浜商店街あたりに住み、家の近くにあった映画館に足しげく通う。 千葉県の木更津中央高等学校[注釈 1]で、柔道部の主将を務めた[9][10]。公式戦で無敗を誇り、大学から引き合いが来るほどの強さで、本人は柔道で大学へ進み、武道館に出場するのが夢だったという[9][10]。しかし、素行面で学校ともめごとが絶えず、もうすぐ3年に上がろうというとき、高校側から退学処分を受ける[9][10]。 高校を退学後、バーテンダーやウェイターをやりながら、やがて上京[11]。ある日、駆け出しの女優という女性と知り合い、この女性が応募書類をくれたことで、大映ニューフェイスへの応募を決意する[12][10]。だが、友人に頼んで写真を撮ってもらい、いざ応募しようという段になって応募期日を確かめると、すでに期限が切れていたことを知る[12][10]。「せっかく撮った写真が無駄になるから」との理由で、ダメもとでいいからと思い、規定では写真は3枚だったが、20枚ほどあった写真をすべて送ったところ、運よく合格[12][10]。約2万人の中から選ばれ、大映ニューフェース第20期生に合格した[13][10]。同期には八並映子[10]、京都撮影所で採用された伊吹剛[14]のほか、最終審査に落ちたが倉田保昭がいた[10]。 大映入社後、半年間研修所に通う[10]。ある日、遅刻して出所すると、永田秀雅副社長が「炎 三四郎」と命名していた[10]。芸名の命名は永田副社長の趣味で、インパクトのある名前だったが、これは一方的に大映本社から付けられた不本意なものであり、立場柄逆らえず、一時は映画界から身を引こうとまで思いつめたという[10]。この「炎三四郎」の『三四郎』は速水の柔道経歴から、また『炎』は往年の大映の女優「炎加代子」から採られたものだった[10]。 1969年10月1日、大映と正式契約し、直後に『あゝ陸軍隼戦闘隊』でデビュー[3][10][15][8][注釈 2]。役柄は通信将校で、台詞も多かったがNGもなく、撮影所から度胸を認められたという[10]。 1970年、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』で主演[5][10]。この『ガメラ対大魔獣ジャイガー』のすぐあとに来たエキストラの仕事を2度続けて断ったところ、半年近く仕事を干されてしまう[10]。もともと「炎三四郎」の芸名が不本意だったので、数人の俳優仲間と共に辞意を伝えたところ、速水のみ慰留された[10]。 1971年、大映京都撮影所作品の『海兵四号生徒』で役を貰い、芸名変更を承諾されたので、「豊田 正文」と芸名を変える[10]。『豊田』の姓は、この映画の原作者である豊田穣にちなんだもので、使われたのはこの作品のみである[10]。撮影を終え帰京したところで大映が倒産、しばらくアルバイト生活を送る[10]。 この時期仕事があまり来ず、姓名判断に凝っていたことから、芸名を「三崎 玲資」に変えたが、一、二度の使用に留まった[10]。
来歴