通化事件
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

通州事件」とは異なります。

この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
旧満州国通化省通化市(現吉林省通化市)

通化事件(つうかじけん)とは、1946年2月3日中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市中華民国政府の要請に呼応した日本人の叛乱蜂起と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による多数の日本人らに対する逮捕とそれに伴う虐待や虐殺事件。日本人犠牲者数について諸説あるが、少ない説で戦闘時の死者も入れて約800人、多い説では約3000人の死者が出たとされ、その中には蜂起に参加さえしていなかった一般市民が多数いたとみられる[1]。中国では通化二・三事件[2]などと呼ばれる。目次

1 当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍

2 背景

2.1 当時の通化の状況

2.2 ソビエト軍・中国共産党軍の進駐と暴行

2.3 中国共産党軍の単独進駐以降

2.4 日の丸飛行隊飛来

2.5 蜂起の流言

2.6 日本人居留民大会

2.7 蜂起直前の状況・旧満州国幹部処刑(一月十日事件)


3 蜂起から鎮圧後の虐殺まで

3.1 前日(情報漏洩)

3.2 蜂起

3.3 連行

3.4 強制収容

3.5 虐殺


4 百貨店での藤田大佐らの「展示」

5 備考

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

当時の中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍「朝鮮義勇軍」、「東北民主連軍」、および「朝鮮人日本兵」も参照

当時、先に進駐していた朝鮮人民義勇軍(李紅光支隊)と延安からの正規の中国共産党軍を中共軍または八路軍と包括的に呼称した。ただし、中ソ友好同盟条約によって満州で中国共産党が活動することは許されていなかったため、東北民主連軍などと称していた。彼らはもともと満州で中国共産党によって設立され、抗日活動していた東北抗日連軍の残党がソ連の後押しを受けて再編されたもので、延安の本部とはなかなか連絡がとれず、1945年10月にようやく延安本部との合併が決まった[3]。延安の八路軍に対して日本人は彼らを新八路と呼び、作家の松原一枝は、元朝鮮人日本兵や現地の朝鮮人などで構成された李紅光が率いる此の朝鮮人民義勇軍が主に日本人へ暴行・掠奪・処刑の報復行為を行ったと考えている[4]
背景 中華民国政府に降服する日本軍(1945年9月)
当時の通化の状況

通化は第二次世界大戦/日中戦争の終戦時に中華民国政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって統治されていた[5]。通化市はもともと日本人8千人[6]を含む、複数の民族が居住する人口14万人の都市であった。ソ連進攻に対応した日本兵の集中や大勢の日本人難民の到来により日本人が増加し、日本系大企業の寮・社宅やそれまでに設営されていた軍関係の施設さらに料亭等に収容するだけでは足りず、日本人で広い屋敷・住居を有する者の邸宅のほか、狭い満州式の建物に住む日本人のところ、1945年8月18日に通化国民学校に設置された避難民収容所にも分散して収容させた。通化に避難してきた女性たちは顔に泥やススを付けて坊主頭にして男物の衣類を着ていた者や、麻袋に穴を空けたものに縄帯したものやぼろぼろの姿の者もいた[7][8]。居留民会が結成され、軍の貯蔵物資を利用したほか、通化の在留邦人から衣服等が提供された[7]。武装解除された日本兵は次々と吉林、次いでシベリアへと送られていった(シベリア抑留[9]が、同年8月13日に発生した小山克事件に巻き込まれた避難民も到着しており、日本人の人口は1万5千人とも一時は3万人になっていたともされる。なお、10万人の難民が滞在していた[10]とする説もあるが、1945年12月末の中国側資料による通化市の日本人の人口は1万6千人[6]とされ、また、住民から日本人が全市人口の半数近くに達したという話が聞かれたこともなく、この説は信頼性に乏しい。ただし、当時、通化市をその中に含める通化県だけでなく、通化省クラスの大きさ(ただし満州国の消滅とともに行政機構としての通化省はなくなっている)で考えれば、後の厚生省の引揚調査で満州全体を幾つかの地域に区分した上で通化として5万人台の邦人がいるとされたこともあり、ある程度近い数に上ったことはありうる。ただし、当時は主に、いわば省都である通化市とその周辺区域を共産軍が押さえ、他の主要都市を国民党軍が押さえた形になっていたので、この通化事件でいう通化とは、城区部分に城外の渾江河岸の江東地区とせいぜい二道江地区を加えた、当時の通化市の範囲を意味する。ちなみに、現在の中国の通化市は、その中に通化県を抱える、広大な地級市(準省クラスの市)である。(なお、もともとの居留民の2~3倍の難民を受け入れた後、さらに500~600名の難民の受入要請がソ連軍から来た時には、これ以上受け入れれば共倒れになるとして、当初通化市側は受入に大変な難色を示している[11]。このことからも当時の通化市に10万人の追加人口の吸収力があったとは考えにくい。また、例えば降伏受諾直前に新京から鉄道で通化に向かっていた軍需企業関係者らは降伏を聞いて、住居や事業基盤・生活基盤の残る新京に引き返している。)

既に終戦前から反日運動の地下工作が全満州に行きわたっており、国民党・共産党ともに通化に浸透していた。もともと満州では、日本や日本軍の南方での戦いのために全土で食糧の供出割当が強制的に押しつけられ、当の生産した農民には豆粕が配給され、それも日本人優先で満人・朝鮮人は後回しにされるという状況であった[12]。さらに、日本人農家のための農地造成や石炭増産のために、各集落に勤労奉仕の割当がある[12]等、現地人の怒りが高まっていた。戦争末期には二道江の製鋼所では満人労務者のストライキも発生したが鎮圧されたという。また、当時の満州製鉄は矯正輔導院に収容された輔導工を重要な労働力としていたが、輔導院には本来対象となる筈の刑事犯・思想犯だけでなく中国兵捕虜、さらには一般の現地良民までが入れられ、二道江については不明ながら、鞍山や通化近くの石人の鉱業所には輔導工がいて、戦前・戦中はタコ部屋労働(監禁され、虐待や暴力を受けて強制労働をさせられるもので、はなはだしい場合は見せしめにリンチを受けて殺されていた。当時は日本本土においてすら、場所によっては公然の秘密のように、このようなことが横行していた。)をさせられていたという[13]。なお、石人は万人坑の一つがあったところとして知られる[14][15]

現地人の日本人への怒りや恨みは高まっていた。佐藤和明は、関東軍がソ連軍に渡すくらいならと衣類・毛布を日本人にのみ分配した後、集まった中国人ら(彼の父の記録によると満人とされている)が分配を懇願しているにもかかわらず、逆撫でするかのように彼らの眼前で焼却していたことを目撃している[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:135 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef