退位
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退位(たいい、英語: abdication)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。しばしば譲位と混同されるが、その意味合いは異なる。
概要

通常、革命憲法法律などによって君主制が廃止されない限りは、自動的に継承者に譲り渡すことになる。君主の地位の継承は2種類あり、君主の死によって継承される場合は「退位」と言わず、君主が生きているうちに地位権力を手放すことを「退位」という。また、君主自身の意思ではなく、革命や憲法などで他人が君主から地位権力を剥奪することは廃位(英:dethronement)という(ただし、この場合でも剥奪した側は退位を装うことがある)。

2016年(平成28年)7月13日の第125代天皇明仁の意向を示す主要各紙や放送各局の報道では、「生前退位」の表現が多く用いられた[1][2]。しかし「生前」という言葉はその人物の「死後」を前提として使用するため、存命の人物に対して「生前」という言葉は非礼に当たり、本来不適当なものであるとされる。通常、存命の人物に対して用いる語は「譲位」とするのが適切である[3]

中世ヨーロッパ世界において、君主が生前に退位する事例はいくつも見られた。ただしそれは主に、政争に敗れての強制的なものだった。イングランド王国を例にとると、エドワード2世1327年)、リチャード2世1399年)が挙げられる。革命で君主の座を追われる事例も近世以降には見られるようになった。同じくイングランドでは、名誉革命で亡命したジェームズ2世(1688年)が代表例である。また、君主自身のスキャンダルを理由とする退位も、近代以降には生じるようになった(バイエルン王国ルートヴィヒ1世イギリスエドワード8世など)[4]

君主自身の高齢化や健康状態を理由とする「譲位」は、古くは神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世などの例も見られるが、常態的になったのはヨーロッパでも20世紀以降である。その嚆矢となったのは、1948年9月に退位したオランダのウィルヘルミナ女王で、68歳の時に王位を長女のユリアナに譲った[4]。女性君主から実子への譲位と見るならば、アラゴン女王ペトロニラカスティーリャ女王ベレンゲラなど、中世からしばしば見られるが、これらの場合は男王への譲位である。

退位について、憲法に規定のある国が多い。日本・イギリス・スペインは特別法によって退位している。また、憲法・法律の規定を根拠としないで退位している国の例もある(カタールブータンベルギー[5]
20世紀以降に退位した主な君主
20世紀前半

名位日付後継者
オスカル2世 ノルウェー国王1905年10月26日[注釈 1]ホーコン7世
高宗 韓国皇帝1907年7月20日純宗
純宗1910年8月29日韓国併合
マヌエル2世 ポルトガル国王1910年10月4日君主制廃止
宣統帝 大清皇帝1912年2月12日[注釈 2]
ニコライ2世 ロシア皇帝1917年3月15日
コンスタンティノス1世 ギリシャ国王1917年6月11日アレクサンドロス1世
宣統帝 大清皇帝1917年7月12日[注釈 3]君主制廃止
フェルディナント ブルガリア国王1918年10月3日ボリス3世
カール1世 オーストリア=ハンガリー皇帝1918年11月12日君主制廃止
ニコラ1世 モンテネグロ国王1918年11月26日セルビア王国と統合
ヴィルヘルム2世 ドイツ皇帝1918年11月28日君主制廃止
マリー=アデライド ルクセンブルク女大公1919年1月14日シャルロット
コンスタンティノス1世 ギリシャ国王1922年9月27日ゲオルギオス2世
ゲオルギオス2世1924年3月25日第二共和政[注釈 4]
ミハイ1世 ルーマニア国王1930年6月8日カロル2世
アルフォンソ13世 スペイン国王1931年4月14日第二共和政[注釈 5]
タイムール オマーン・スルタン1932年2月10日サイード
プラチャーティポック タイ国王1935年3月2日アーナンタマヒドン


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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