追風海直飛人
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追風海 英飛人

基礎情報
四股名追風海 英飛人
本名齊藤 直飛人
愛称サイトー
生年月日 (1975-07-05)
1975年7月5日(45歳)
出身青森県北津軽郡板柳町
身長184cm
体重129kg
BMI38.10
所属部屋友綱部屋追手風部屋
得意技右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付引退
最高位西関脇
生涯戦歴281勝223敗130休(48場所)
幕内戦歴126勝127敗77休(22場所)
優勝十両優勝1回
技能賞1回
データ
初土俵1998年3月場所[1]
入幕2000年3月場所[1]
引退2006年1月場所[1]
引退後青森県議会議員
趣味読書
備考
2014年9月8日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

追風海 英飛人(はやてうみ ひでひと、1975年7月5日 - )は、日本政治家自由民主党所属の青森県議会議員(3期)。元青森県板柳町議会議員(1期)。かつて追手風部屋(入門時は友綱部屋)に所属した元大相撲力士。本名は齊藤 直飛人(さいとう なおひと)。現役時代の体格は184cm、129kg。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。最高位は西関脇(2000年11月場所)。趣味は読書、愛称はサイトー[1]血液型はO型。目次

1 来歴

2 引退後政界へ

3 略歴

4 主な成績

4.1 場所別成績


5 改名歴

6 脚注

7 注釈

8 関連項目

9 外部リンク

来歴

青森県北津軽郡板柳町出身。前廻しを取っての寄りや投げを得意とし、玄人受けする力士だった。地元の板柳中学校から埼玉栄高校に進学し相撲部へ入部。3年生の時に国体少年の部で優勝した。高校卒業後は日本大学相撲部へと進み、大学3年生の時には頚椎骨折を乗り越え学生横綱の栄位を獲得した[1]。琴光喜の27タイトルには及ばないものの15タイトルを獲得した。同じ板柳町出身で、板柳中・日大の1年後輩である加藤精彦(高見盛)とは退職後も交流があり、高見盛の断髪式へ出席したり高見盛の引退を記念して作成されたムックでの証言を務めたりと、何かと縁がある間柄である[2]。貴闘力曰く100M10秒台を記したこともある俊足で、相撲をやらなければ陸上で五輪を目指せた。

大学卒業後、追手風親方(元前頭2・大翔山)の内弟子として友綱部屋へ入門し、1998年3月場所にて幕下付出初土俵を踏んだ。 初土俵同期の元十両・玉ノ国は恐る恐る土俵下で控えている側で斎藤の相撲ぶりを見て勇気を貰ったという[3]。大学1年生の時に頸椎を骨折した影響で、頭から当たることができなかったことから、八艘跳びの奇手も見せた。引退後本人のインタビューでは、「正直言って、今はどこも悪いところないんですよ。膝は靭帯移植手術で完治したし、首の経過も良好です。公傷制度があればなあ…」と後悔を見せていた。

入幕3場所目の2000年7月場所は雅山出島の2大関に勝ち、2000年9月場所でも雅山と出島の2大関に勝ち、2000年11月場所は新三役(関脇)の場所でも武双山千代大海の2大関に勝ち、3場所連続2大関に勝ち大関キラーとも言われた。2001年5月場所では1横綱4大関を撃破していた朝青龍、3大関を撃破していた栃東に勝ち9勝。しかし2001年11月場所で初日から8連勝するも、貴ノ浪戦で膝を3たび怪我し翌日から休場。3回目のこの怪我は深刻で、以後の2年間(2002年 - 2003年)が殆ど十両で低迷する原因になった。やっと幕内に本格復帰したのは2004年。しかし3年でただでさえ軽量な体重が130キロ台から110キロ台に、さらに減ってしまっていた事が災いし三役などに再び上がる事は出来なかった。

それでも、2004年5月場所では霜鳥に先に上手を取られたが、外掛けから左側へ寄り倒して勝った。2004年7月場所では入幕2場所目の白鵬に3度も吊られるが、土俵際で残っていたため送り出しで勝ったり、その場所活躍し三賞を唯一受賞した豊桜にも押し倒しで勝った。2004年9月場所は豪風に八艘飛びで勝ったり、前の場所で後ろもたれで負けた高見盛に速攻で寄り切った。2004年11月場所は、武雄山に八艘飛びで勝ったり、琴龍に右腕で左腕を引っ張りながら首投げを決めて勝ったり、入幕2場所目の琴欧州(上手投げを掬い投げで打ち返す)や新入幕の稀勢の里にも勝利した事もあった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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