近親婚
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ジェームズ・バリー『イダ山のユーピテルとユーノー』
ユーピテルゼウス)は姉のユーノーヘーラー)と近親婚を行った。

近親婚(きんしんこん、: consanguine marriage)は、近い親族関係にある者同士が婚姻関係を結ぶことである。親子婚兄弟姉妹婚叔姪婚いとこ婚等が例として挙げられるが、近親の定義は社会によって様々である。近親者同士の性行為そのものを意味する近親相姦との相違に注意。
歴史

世界各地の創造神話では、神々や創造直後の人間が近親婚を行い、神や人口を増やす描写があることが多い(ヒエロス・ガモス)。
古代エジプトエジプト第18王朝ツタンカーメンの一族)の家系図

古代エジプトなどにおいては、近親婚が容認されたり、むしろ奨励されたりしていたケースもある。古代エジプトの王家では父と娘や兄弟姉妹の婚姻例もあり、エジプト第19王朝ファラオであるラムセス2世は自分の娘達と結婚し、プトレマイオス2世アルシノエ2世と結婚した。

だが、山内昶はエジプトの近親婚について、2世紀の記録で113例の婚姻のうち20%に当たる23例が(兄弟姉妹婚)キョウダイ婚であったとされる話を挙げ、特に王族に限った話ではなかったと指摘している[1]
古代イラン

パルティア史の記録文献においては母と息子の婚姻例も存在し、元々は古代ローマの女奴隷であったムサが国王フラーテス4世との間にフラーテス5世をもうけた後、息子と謀って夫を殺害し国王となった息子と結婚したと伝えられている。だが、この結婚が一因で周囲に反発されフラーテス5世は廃されたという。

古代ペルシャの母子結婚は、シャルル・ド・モンテスキューの『法の精神』でも近親婚の規制は自然法か市民法かという問題の絡みで触れられているが、母親と結婚したのはゾロアスター教という理由があったものであり、自然の秩序に基づいた行動とはいえないと論じている。

イラン発祥の宗教ゾロアスター教では、父と娘、母親と息子、兄妹・姉弟間の結婚をフヴァエトヴァダタと呼び最大の善行とする[2]
ヨーロッパ「いとこ婚#ヨーロッパ」も参照近親婚を理由に破門されたロベール2世(ジャン=ポール・ローランスによる1875年の絵画)

ヨーロッパの多くの国では、王族の結婚による領地拡大政策を行った結果として近親婚が増え、遺伝性の病気が王族の一部に見られることもある。ハプスブルク家下顎前突症など[3]

他方、カトリックでは、教会法によって教会式親等計算で当初は4親等以内、中世では7親等以内(時代によってはさらに広範囲)の近親婚を禁止していた。これを現在の日本の法律で用いられるローマ式親等計算に換算すると、それぞれ最大で8親等以内、14親等以内の近親婚を禁止していたことになる。又従姉ベルト・ド・ブルゴーニュとの再婚が原因で破門を受けたフランスロベール2世のような例もある。

しかしヨーロッパの王族、貴族は同ランクの者との婚姻を繰り返したため、近親婚を避けることは事実上不可能になり、気付かなかったことにしたり教会に特別免除をもらうことによって、有名無実なものとなった。事実上容認された近親婚の範囲は地域によって異なるが、スペインポルトガルの王族やドイツ諸侯の間では叔姪婚がしばしば行われた。顕著な例としてスペイン・オーストリアハプスブルク家が挙げられる。フランスでも、カペー朝後期以降はロベール2世の子孫の間で又いとこ婚やいとこ婚が一般化している。ただし、離婚(婚姻の無効)や他人の結婚に異議を申し立てる時には、近親婚であることが理由として利用された。
コーカサス地方

グルジア人の間では慣習上、結婚対象者との間には、7代遡っても共通の祖先がいないことが条件となっている。同時に、キリスト教会での「洗礼親」(実の親が友人に頼むことが多い)も「親」と見なされるので、小さな街では結婚対象者が限られてしまうことになる(現実的ではないので、この点については目をつぶることもある)。また、仮に縁戚関係がなくても同姓の異性との婚姻は避けられる。これらの事情から、いとこ婚などはもってのほかとされている。
イスラム

イスラム文化圏では、血縁の濃さを喜ぶ傾向、またムハンマドの第7夫人ザイナブがムハンマドの従妹であったことから、いとこ婚が多い。中でも、父方平行いとこ婚(ビント・アンム婚)が尊ばれる[4]クルアーンに記述された、婚姻が禁じられた近親者の一覧の中にも、いとこは書かれていない。
タイ王妃サオヴァバ(左)と異母兄にしてタイの国王のラーマ5世(右)の夫婦の写真

タイの国王であるラーマ5世は数人の異母妹と結婚しているが、ラーマ5世の場合は迎えた妻の数がかなり多く、数人程度では子孫の多様性の妨害にはならないという事情もあった。
中国

中国においては代以降の慣習で同姓不婚の原則があり[5]、同姓間の近親婚については避けられるが、異姓間の近親婚が行われる例が見られる。前漢恵帝が同母姉の魯元公主の娘である張氏を皇后に、武帝が父の同母姉の館陶長公主の娘である陳氏を皇后に、また三国時代孫権が父方の従兄の徐?の娘である徐氏を夫人に、景帝が異母姉の孫魯育の娘である朱氏を皇后にしていた例がある。南朝前廃帝が父方の叔母の新蔡公主を貴嬪にしていた同姓の近親婚の例も見える(しかし、劉姓から謝姓に改姓した)。

漢風の習俗の浸透度が弱かった、あるいは后妃を出す家柄が貴族階級として固定化していた匈奴北朝の皇帝や皇族にも、いとこ婚などの例が見られる。
朝鮮

朝鮮では、新羅骨品制の考えから神聖なる天降種族の血の純潔性を尊ぶため王族間の通婚が行われた他、高麗時代には異母兄弟姉妹婚も行われた[6]。『三国史記』と『三国遺事』によると、新羅の初代王赫居世居西干と王妃閼英夫人はともに娑蘇夫人の子である。異母兄弟姉妹婚の事例としては高麗初期の光宗が異母妹の大穆王后皇甫氏を王后にしたといった例が知られている。

しかし、李氏朝鮮性理学的イデオロギーを基盤に同姓同本不婚制を一貫して堅持した。この制度は韓国で引き続き施行されたが[6]1997年に8親等以内に縮小された。
日本(歴史)

古事記』『日本書紀』には王族・皇族において異母兄弟姉妹婚や叔姪婚やいとこ婚などといった近親婚の例が数多く記載されている。だが、中には景行天皇が息子の倭建命の曾孫の迦具漏比売命を妻にし大江王をもうけたという『古事記』の記録に対して、倭建命という伝説的な人物を実在の人物として組み込んだために系譜に混乱が発生したのではないかと指摘された事例もある[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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