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凡例近衛 基実
近衛基実像(『天子摂関御影』より)
時代平安時代末期
生誕康治2年(1143年)
死没永万2年7月26日(1166年8月23日)
別名六条殿、梅津殿、中殿
官位正二位、摂政、関白、左大臣
贈正一位、太政大臣
主君後白河天皇→二条天皇→六条天皇
氏族藤原北家御堂流近衞家
父母父:藤原忠通、母:源信子
近衛 基実(このえ もとざね、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:近󠄁衞 基實)は、平安時代末期の公卿。藤原北家、関白・藤原忠通の四男。官位は正二位・摂政・関白・左大臣。通称は六条摂政(ろくじょう せっしょう)。五摂家の一つとなった近衞家の祖。 父・忠通にとって16年前に三男を早世させて以来の男子出生であったが、既に忠通は自身と20歳以上も年の離れた弟である頼長を猶子としており、表向きは歓迎されない出生であった。だが翌年には母・信子の実家より高陽院に移され、久安元年(1145年)正月の載餅
経歴
久安6年(1150年)、8歳となった基実の元服と叙位が決定されるが、この年の9月に後継者問題を巡って忠通が父・藤原忠実から義絶されて藤氏長者の地位も奪われて半ば失脚する形になる。そのため、諸国の受領の協力を得られずに12月25日に実施された元服の儀式では饗宴が行えず、本来であれば元服当日に行われる筈であった正五位下・左近衛少将への叙任も30日まで引き伸ばされた[1]。
その後、わずか10歳で従三位に叙せられているが、頼長の子供たちと比べるとその昇進は大幅に遅れており、摂関家を継ぐためには必須の経歴であった近衛中将に任ぜられたのは従三位になってから(摂関家の嫡子は通常五位で任官)、近衛大将に至っては遂に任じられることがなかった[4]。
ところが、近衛天皇の崩御後に父・忠通の推しで後白河天皇が即位すると、父と天皇の引き立てで権中納言、権大納言を経て、保元2年(1157年)には正二位・右大臣に叙任される。この間、保元の乱においては父と共に天皇に近侍して東三条殿行幸の際に剣璽を奉じている[5]。
保元3年(1158年)8月には16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し、藤氏長者となった。忠通は既に62歳となっていたため、長く昇進が抑えられていた基実を一刻も早く昇進させて自身の後継者として関白の地位を譲り、自身は大殿としてその後見をしようとしたのである。しかし、その一方で忠通は近衛大将を経ずに摂関となった基実は摂関家自体の後継者としては相応しくはないと考えていた節があった[6]。このため、忠通は基実の弟を次の摂関にしてその子孫に摂関家を継がせようとしたとする議論がある。ただし、忠通が意図した摂関家の後継者については、朝廷内で忠通に継ぐ実力者である閑院流の三条公教の娘を妻に迎えて忠通自筆の日記を継承した異母弟の松殿基房であったとする説[7]と姉である皇嘉門院の養子となり摂関家の嫡子と同様の昇進を遂げた異母弟の九条兼実であった説[8]がある。