この項目では、旧日本陸軍の師団について説明しています。日本以外の国におけるものについては「近衛兵」を、律令制の日本におけるものについては「近衛府」をご覧ください。
近衛師団
近衛師団司令部庁舎(?1945年)
東京国立近代美術館工芸館(1977年?2020年)
創設1891年(明治24年)12月14日
1943年(昭和18年)6月1日
(近衛第1師団及び近衛第2師団に改編)
1944年(昭和19年)7月18日
(近衛第3師団が編成)
廃止1945年(昭和20年)
所属政体 日本
所属組織 大日本帝国陸軍
部隊編制単位師団
兵種/任務/特性歩兵
(自動車化歩兵 (1940?))
所在地東京-台湾-東京-
-東京(近衛第1師団)
-マレー半島-スマトラ島(近衛第2師団)
東京-千葉県(近衛第3師団)
編成地東京
通称号/略称宮 (?1943)
隅 (1943?)(近衛第1師団)
宮 (1943?)(近衛第2師団)
範 (1944?)(近衛第3師団)
補充担任近衛師管
近衛師団(このえしだん、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:近󠄁衞師團)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊(軍隊)として天皇と宮城(皇居)を警衛する「禁闕守護」(きんけつしゅご)の責を果たし、また儀仗部隊として「鳳輦供奉」(ほうれんぐぶ)の任にもあたった。
帝国陸軍における軍隊符号はGD(一般師団はD)。太平洋戦争中後期には編制の改編が行われ、最終的には近衛第1師団 (1GD)・近衛第2師団 (2GD)・近衛第3師団 (3GD) の3個近衛師団が編成された。
戦後、1955年(昭和30年)頃に、防衛庁は陸上自衛隊に事実上の「近衛部隊」を復活させることを計画したが、警視庁や皇宮警察などの警察当局の強い反対により実現しなかった(後述)[1]。その後、1962年(昭和37年)に市ヶ谷駐屯地に編成された第32普通科連隊が「近衛連隊」を自称している[2]。
現在、皇居の警備は主に、警察庁の附属機関である皇宮警察本部[注 1]が担っている。
特徴1920年代後半、皇太子(近衛歩兵第1連隊附陸軍歩兵大佐)当時の昭和天皇と、儀仗用の騎兵槍を奉じる近衛騎兵連隊の将兵(後方)1924年(大正13年)、皇太子裕仁親王(昭和天皇)・良子女王(香淳皇后)の結婚の儀において、御料車を警護する正衣を着用した近衛騎兵連隊の将兵
将来の天皇(大元帥)となる皇太子(東宮)は、西洋社会におけるノブレス・オブリージュを模範として近衛歩兵第1連隊附となるのが通例であり、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)は近歩1附であった。
近衛師団は禁闕守護の任から衛戍地は東京市(現在のほぼ東京23区)であったものの、他の一般師団と異なり、連隊区といった特定地域からの徴兵によるのではなく、大日本帝国全国から選抜された兵士によって充足されていた。近衛兵になることは大変な名誉とされた[3][4]。
軍服も一般師団とは区別され、
一般の将校准士官正衣の正帽(旧称:第一種帽)のクラウン部が濃紺(黒色)絨、将官を除く一般将校准士官下士卒の明治38年制以前の第二種帽の鉢巻部・一般騎兵下士官兵の胸飾紐(肋骨服)が黄色であるのに対し、「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する軍隊に属する者ではそれらの部分が緋色。