近衛秀麿
[Wikipedia|▼Menu]

近衛 秀麿
近衛秀麿(1960年)
基本情報
別名おやかた
生誕 (1898-11-18) 1898年11月18日
出身地 日本 東京府東京市麹町区
(現在の東京都千代田区
死没 (1973-06-02) 1973年6月2日(74歳没)
日本 東京都世田谷区野毛
学歴東京帝国大学文学部中退
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者作曲家
活動期間1920年 - 1973年
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

日本政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}近衛(このえ) 秀麿(ひでまろ).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}近󠄁衞 秀麿󠄁
貴族院子爵議員在任時(1932年)
生年月日1898年11月18日
出生地 日本 東京府東京市麹町区
(現在の東京都千代田区
没年月日 (1973-06-02) 1973年6月2日(74歳没)
死没地 日本 東京都世田谷区野毛
出身校東京帝国大学文学部中退
(現在の東京大学文学部
称号正三位勲三等
子爵(1946年爵位返上)
配偶者毛利泰子
長井和子
子女次男・近衛秀健
三男・水谷川忠俊
養子・近衛通隆
親族父・近衛篤麿(貴族院議長)
叔父・徳川家達(貴族院議長)
叔父・津軽英麿(貴族院議員)
兄・近衛文麿(内閣総理大臣)
義兄・大山柏(貴族院議員)
弟・水谷川忠麿(貴族院議員)
従兄・徳川家正(貴族院議長)
貴族院子爵議員
在任期間1932年7月10日[1] - 1937年7月21日[2]
テンプレートを表示

近衛 秀麿(このえ ひでまろ、旧字体:近󠄁衞 秀麿󠄁、1898年明治31年〉11月18日 - 1973年昭和48年〉6月2日)は、日本指揮者作曲家正三位勲三等。元子爵。元貴族院議員後陽成天皇男系12世子孫である。

日本のオーケストラにおけるパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称[注釈 1]で親しまれていた。評価がされない時期もあったが、2006年には初めて近衞に関するまとまった本が出版されるなど、再評価の動きも徐々に出てきている。
人物・来歴
誕生?新響

1898年11月18日公爵近衛篤麿の次男として、東京市麹町区(現在の千代田区)に生まれる。異母兄に近衛文麿政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衛直麿雅楽研究者)、水谷川忠麿春日大社宮司)がいる。

近衛家五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。音楽は文麿の影響で興味を持つようになった。学習院時代に犬養健らと親しくなり、1913年頃には東京音楽学校の分教場、次いで上野の本校によく遊びに出かけていたと言われている[誰によって?]。一時期飛行機に熱中した時期もあったが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機の趣味を断つ証としてヴァイオリンを正式に勉強することを許された。

1915年からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学ぶようになった。一方で、東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味を強めていった。

1920年瀬戸口藤吉が主宰していたアマチュアオーケストラを瀬戸口の代演で指揮し、指揮者デビューを果たしたが首尾よくは行かなかったようである。学習院初等科学習院中・高等科を経て、東京帝国大学文学部に入学するが中退した。

1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングスフルトヴェングラーの師)、ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事する。

ヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて山田がそうしたように秀麿も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇い、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。また、ドイツのインフレと著しいマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み、同年9月に帰国。

1925年には山田耕筰と協力し、日本交響楽協会を設立。定期演奏会や、ハルビン在住の楽士を加えた「日露交歓交響管弦楽大演奏会」も成功させた。

「常設オーケストラの設立」という山田の夢を直接的にかなえる役割を果たした秀麿であったが、マネージャーの原善一郎が不明朗経理を糾弾された際、秀麿は原の味方にまわった。当時山田は体調を崩しており、秀麿と原が山田の代わりに会計に携わっていたが、その際に5,400円(当時)もの謎の使途不明金が出て、原がそれを山田に尋ねたところ逆に不明朗経理を糾弾され、さらに解任を言い渡された。

この問題に関しては、後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田を釣ったという説があるが、山田が儲けの半分を独占し、残り半分を楽員全員で山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派に引き入れて分裂に至らしめた、という説もあり真実は不明である。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef