凡例近衛 基熈
近衛基熈像(錦小路頼庸
近衛 基熈(このえ もとひろ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:近󠄁衞 基熈)は、江戸時代前・中期の公卿。近衛家21代当主。後陽成天皇の男系三世子孫である。 江戸時代前・中期の公卿である。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主として知られ、また後陽成天皇の男系三世子孫でもある。 慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父の尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熈が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へすすんだ。 いよいよ関白就任の一歩手前にまで迫ったが、延宝8年(1680年)、基熈の後ろ盾とも言うべき後水尾法皇が崩御し、霊元天皇が親政をおこなうようになった。霊元天皇は幕府嫌いで有名だったが、基熈は「親幕派」とみられていたので天皇から疎まれるようになる。そして天和2年(1682年)には関白職に右大臣一条兼輝を越任させるという贔屓人事が行われ、以降基熈は霊元朝では干され続けた。貞享3年(1686年)に辛うじて従一位を賜っているのみであった。しかもその一方で、幕府の方から好かれていたのかと言えば全くの逆で、時の将軍徳川綱吉は、自分の後継問題で緊張関係にあった甲府藩主徳川綱豊(後の6代将軍家宣)の正室の熈子が基熈の長女であった事から、綱豊の舅である基熈に対しても冷淡であり、この時期はまさに沈滞期であった[1]。
概要
生涯