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近衛 十四郎
本名目黒 寅彦
(出生名:目黒 寅一)[1]
別名義長岡 秀樹
生年月日 (1914-04-10) 1914年4月10日
没年月日 (1977-05-24) 1977年5月24日(63歳没)
出生地 新潟県長岡市[1]
死没地 京都府船井郡八木町(現・南丹市)
職業俳優
ジャンルテレビ・映画
配偶者水川八重子
著名な家族松方弘樹(長男)
目黒祐樹(次男)
目黒大樹(孫)
仁科克基(孫)
仁科仁美(孫)
十枝真沙史(孫)
近衛はな(孫)
主な作品
映画
『叫ぶ荒神山』(1934年) /『柳生武芸帳』(1961年)
テレビドラマ / 『素浪人 月影兵庫』
『素浪人 花山大吉』
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近衛 十四郎(このえ じゅうしろう、1914年4月10日 - 1977年5月24日)は、戦前から戦後にかけて活躍した時代劇俳優。数多くの時代劇ファンを魅了する殺陣は「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」「古今東西ナンバー1」と評される。本名、目黒 寅彦(出生名は寅一[1]、のち改名)。新潟県長岡市出身[1]。 新潟県長岡市西新町で、父・目黒多七、母・ミカの長男として生まれる(姉と妹に挟まれた長男だが、実の長男は早世しており正確には次男)。13歳で父を亡くし、その後は母によって育てられる[2]。 長岡工業学校卒業後[1]、映画俳優を目指し、1932年市川右太衛門プロダクションに研究生として入団する[1][3]。最初の芸名は長岡秀樹だった。東亜キネマを経て[3]、役者の腕ではなく野球の巧さ(ショートの守備は映画界でも白眉だったという)を買われて日活に引き抜かれ[1]、『血煙り荒神山』でデビューした[1]。しかしもっぱら「鉄棒組(大勢で「御用!御用!」と連呼する「捕り手」集団の一人)」に甘んじていた。 1934年、長岡が20歳のとき、右太衛門プロから独立し枚方市に映画製作会社「亜細亜映画」を設立したばかりだった映画監督白井戦太郎に見出され、白井の勧めで近衛十四郎と改名[注 1]。4月には亜細亜映画第1回作品『叫ぶ荒神山』に主演。吉良の仁吉役でデビューを飾り、続けて翌月には『曲斬り街道旅』でも主演を務める。その後、亜細亜映画は第一映画社と改称、さらに近衛の主演作を1本撮るが興業的に不振に終わり、9月に発生した室戸台風で撮影所が倒壊、資金難から再建不能に陥り、結局、この年限りで倒産する。 1935年、21歳で白井戦太カとともに大都映画社に移って主演。剣戟の看板スターとしての名声を獲得する[1]。 1936年、兵役法の命により、新潟の新発田歩兵第16連隊に入隊する。1939年、映画界復帰。ちなみに大都映画ではこの「近衛不在」という事態を受け、松竹から引き抜いたのが大乗寺八郎だった。近衛復帰後は1942年に大都映画が合併で消滅するまで、互いにライバル心を燃やしたという。 1941年、第二次世界大戦が勃発、この年に女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚。 1942年、28歳。戦時映画社統合によって大都映画社は日活、新興キネマとともに合併され大日本映画製作株式会社(大映)となる[3]。大映は既に剣戟四大スター(阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門)を抱えており[3]、近衛の出番はなく、これに加え、フィルム統制により製作本数が激減したことにより多くの俳優が仕事を失うという状況下、近衛は妻・やゑ(女優・水川八重子)と大都映画の退職金2人分を投じ、一座を結成して国内各地を実演興行して回った[4]。座員は大都映画から引き連れた俳優に浅草の軽演劇から名うての役者を数名引き抜き、多い時には総勢50名近い大所帯だった。7月23日、長男・浩樹(こうじゅ。のちの松方弘樹)誕生。 そのさ中に再び召集を受け出兵。第19師団を有した朝鮮は羅南で終戦を迎えた。その後は中国・延吉に送られ、1年9か月の間、捕虜生活を送った。劣悪な環境で栄養失調になり発疹チフスや壊血病に苦しんだという。その後シベリアへ連行される予定だったが、食事を摂らず痛がる演技をするなどして、連行を逃れている。1946年、赤羽で復員から除隊した。 その後は実演を再開[注 2]。多くの映画俳優が映画界に復帰する中、近衛は1952年まで10年間にわたり、実演興行に拘り続けた[4][注 3]。しかし、1940年代末期、GHQによるさまざまな規制が緩和され、実演興業でも浅草を中心にストリップが息を吹き返すと、客足は女剣劇に流れ[4]、剣戟芝居の人気は衰退の一途を辿っていった。
来歴・人物
戦前・戦中
映画界復帰