近衛前久
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 凡例近衛 前久
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕天文5年(1536年
死没慶長17年5月8日 / (1612-06-07) 1612年6月7日(76歳没)
改名晴嗣→前嗣→前久
別名一字名:竜・山・杉・春
道号:竜山(龍山)
戒名東求院龍山空誉
墓所京都市東山区東福寺
官位従一位関白左大臣太政大臣准三宮
主君後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇
氏族近衛家
父母父:近衛稙家、母:久我慶子
兄弟花屋玉栄、大陽院足利義輝正室)、前久、陽山、道澄、尊信、ひ文字姫(朝倉義景継室)、秀山尊性、渓江院、斎藤正義庶子
妻正室:久我晴通
側室: 波多野惣七娘、宝樹院
信尹、尊勢、宝光院、前子、光照院
猶子:堯真、慈運、教如
特記
事項後水尾天皇外祖父
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近衛 前久(このえ さきひさ、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:近󠄁衞 前󠄁久)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿太政大臣近衛稙家の子。官位従一位関白左大臣、太政大臣、准三宮近衛家17代当主。
生涯
前歴

天文5年(1536年)、近衛稙家の長男として京都に生まれる。母は久我通言の養女慶子。

天文9年(1540年)、元服し、叔母・慶寿院の夫でもある室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受け、晴嗣(はるつぐ)を名乗る。

天文10年(1541年)、従三位に叙せられ公卿に列する。

天文16年(1547年)に内大臣、天文22年(1553年)に右大臣、天文23年(1554年)に関白左大臣となる。また、藤氏長者に就任した。

天文24年(1555年)1月13日、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱(「晴」の字)を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた[1]。この当時、将軍・足利義輝三好長慶との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる[1]
上杉謙信との盟約

永禄2年(1559年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が上洛した際、前嗣と景虎は互いに肝胆照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。

永禄3年(1560年)、前嗣は関白の職にありながら、景虎を頼り、越後に下向した。

永禄4年(1561年)初夏、前嗣は景虎の関東平定を助けるために上野下総に赴き足利藤氏を支援するなど、公家らしからぬ行動力をみせた。景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。その後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前嗣にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている(『歴代古案』)。この頃、名を前嗣から前久(さきひさ)に改め[2]、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える。

しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年(1562年)8月、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる(「尊経閣文庫所蔵文書」『上越史』337)。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている[注 1]
二条晴良・足利義昭との対立

永禄8年(1565年)5月、永禄の変で将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆は将軍殺害の罪に問われる事を危惧して、揃って前久を頼った。前久は義輝の従兄弟であったが、その正室である自分の姉を保護した事を評価してこれを認め、彼らが推す足利義栄の将軍就任を決定した。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じ上洛を果たした。義昭は永禄の変後の前久の行動から兄の死には前久が関与しているのではと疑い、更に前関白の二条晴良も前久の罪を追及した。吟味の結果、義昭はついに前久を朝廷から追放した[注 2]
関白の解任

前久は、都から丹波国赤井直正(妹婿、または娘婿[7])を頼って黒井城下館に流寓。その後、本願寺11世・顕如を頼って摂津国石山本願寺に移り関白を解任された。この時、顕如の長男・教如を自分の猶子としている。後に「信長包囲網」の動きが出てくると、前久も三好三人衆の依頼を受けてこれに参加して顕如に決起を促したと言われている。だが、前久自身は信長に敵意は無く、将軍・足利義昭と関白・二条晴良の排除が目的であった。

そのため、天正元年(1573年)に義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久は再び赤井直正のもとに移って「信長包囲網」から離脱した。

天正3年(1575年)2月、信長の奏上により、帰洛を許された。
織田信長との親交

以後は信長との親交を深め、特に鷹狩りという共通の趣味を有していた事から、前久と信長はしばしば互いの成果を自慢しあったと言われている[注 3]

天正3年9月、毛利輝元への包囲網構築を画策する信長に要請される形で、九州に下向し、大友氏伊東氏相良氏島津氏の和議を図った。


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