近藤日出造
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近藤 日出造
アサヒグラフ』 1952年7月16日号に掲載された近藤の肖像写真
本名近藤 秀蔵[1][2]
生誕1908年2月15日[1][2]
日本長野県更級郡稲荷山町[2]
死没 (1979-03-23) 1979年3月23日(71歳没)[1][2]
東京都中野区[1][2]
職業漫画家
称号#受賞・叙勲歴参照
活動期間1929年[3] - 1976年[4]
ジャンル政治漫画
受賞#受賞・叙勲歴参照
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近藤 日出造(こんどう ひでぞう、1908年2月15日[1][2] - 1979年3月23日[1][2])は日本漫画家。本名は近藤 秀蔵[1][2](読みは同じ)。

戦中から昭和後期にかけて、政治家の似顔絵を主とする1コマの政治風刺漫画を中心に描いた。似顔絵は手塚治虫が「似顔絵の名手[5]」と評する腕前だった。目次

1 略歴

1.1 生い立ち

1.2 漫画家デビュー

1.3 雑誌『漫画』と漫画家グループの合同

1.4 戦中・戦後

1.5 晩年の苦境

1.6 受賞・叙勲歴

1.7 門下


2 顕彰

3 人物

4 作風と評価

4.1 画風と制作姿勢

4.2 活動についての批判


5 著書

6 メディア出演

7 出典

8 外部リンク

略歴
生い立ち

近藤自身が各所に文章として残した略歴は、誇張や創作が加わっているらしく、書いた時期や媒体によって内容がまちまちであり、特に少年期の就職についての詳しい時期や順序は不明であるが、峯島正行の調査[6]などにより、少なくとも以下のことが判明している。

1908年(明治41年)、近藤は長野県更級郡稲荷山町(のちの千曲市稲荷山)に生まれる[2]。生家は衣料品・雑貨商[2]の「丸三商店[7]」。6人兄弟の次男[7]。高等小学校を卒業後、東京・浅草に住む叔父(母の弟)の紹介で、日本橋三越図書部の店員となるが、半年足らずで脚気をわずらい、帰郷[6]。その後長野市内の洋服店に仕立職人として奉公に入るが、当時の商家の風潮だった「主人はうなぎの蒲焼きを食べているのに、俺たちは味噌汁と漬物だけ[6]」という差別的境遇に耐えられず、これも辞職している。その後は家業に専念した。

実家にいたある日、近藤は洋服の入っていた空き箱に、熱した火鉢を当てて焦がし、絵を描いていた[6]。それを見た父が、『朝日新聞』の懸賞漫画に応募することをすすめ、入選した近藤は賞金3円を得た[6]。このほか、雑誌に漫画を投稿し、入選を重ねる[8]。漫画家を将来の目標に定めるようになり、東京美術学校(美校)への入学を目指して、1928年(昭和3年)ごろ[6]、叔父を頼って再度上京する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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