近藤喜文
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こんどう よしふみ近藤 喜文
プロフィール
生年月日 (1950-03-31)
1950年3月31日
出身地 日本新潟県五泉市
没年月日 (1998-01-21) 1998年1月21日(47歳没)
死没地 日本・東京都立川市
職業アニメーター
キャラクターデザイナー
アニメ演出家監督
所属スタジオジブリ
活動期間1968年 - 1998年
ジャンルアニメーション
配偶者近藤浩子
代表作

テレビアニメ
ど根性ガエル
(Aプロ班作画監督・原画・エンディング作画)
未来少年コナン』(原画)
赤毛のアン』(キャラクターデザイン・作画監督)
名探偵ホームズ
(キャラクターデザイン・作画監督)
愛の若草物語』(キャラクターデザイン・原画)

劇場アニメ
火垂るの墓』(キャラクターデザイン・作画監督)
魔女の宅急便』(絵コンテ・作画監督)
おもひでぽろぽろ
(キャラクターデザイン・作画監督)
耳をすませば』(監督)
もののけ姫』(作画監督)

その他の映像作品
金曜ロードショー』2代目オープニング
通称“フライデーおじさん”(作画・演出)画集
『ふとふり返ると-近藤喜文画文集-』
受賞第13回ゴールデングロス賞 マネーメイキング監督賞
東京アニメアワード2017 アニメ功労部門 顕彰者
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近藤 喜文(こんどう よしふみ、1950年3月31日 - 1998年1月21日)は、日本アニメーターキャラクターデザイナーアニメ演出家監督スタジオジブリ所属。新潟県五泉市出身。妻はアニメーション色彩設計者近藤浩子(旧名:山浦浩子)。1子あり[1]
概要

高畑勲宮崎駿両監督作品を1970年代から晩年までアニメーターとして支え続けた。

1995年の映画耳をすませば』で初めて劇場用長編アニメーションの監督を務め、次代の日本のアニメーション、またスタジオジブリを担う作家として、演出面でも将来を嘱望されていたが、47歳で急死した[2]

メリハリのあるアクションから細やかな生活芝居まで手がける高い技術と、仕事に妥協を許さない姿勢、人々を見つめる温かな眼差しは、今なお後進のアニメーターに影響を与え続けている[3][4]
経歴

1950年3月31日、新潟県五泉市に生まれる[1]

1965年4月、新潟県立村松高等学校に入学、美術部に所属する。先輩には漫画家柳沢きみおがいた。

1968年3月、高校を卒業。同年4月、新橋の東京デザインカレッジ・アニメーション科に入学、熊川正雄、大塚康生らの講義を受ける[5]。東映長編に憧れ東映動画志望だったが入れてもらえず、Aプロダクション(現:シンエイ動画)を紹介され[6]、同年10月1日に入社(半期下は本多敏行青木雄三)、『巨人の星』、『ルパン三世』、『ど根性ガエル』などに参加した。

1974年12月、Aプロダクションの同僚である山浦浩子と結婚[1]

1976年9月9日、Aプロダクションがシンエイ動画へと改組、引き続き同社に所属する。同年、日本共産党に入党。居住地の住民運動に尽力する[7]

1977年7月、長男が生まれる[1]

1978年6月20日、シンエイ動画を退社。同年、日本アニメーションに契約入社。『未来少年コナン』(監督:宮崎駿)、『赤毛のアン』(監督:高畑勲)などに参加した。同年、新人養成テキストブック「アニメーションの本―動く絵を描く基礎知識と作画の実際」を共著で出版

1980年、日本アニメーションを退社。同年12月16日、テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。『名探偵ホームズ』などを担当した。

1984年9月より、日米合作劇場用アニメーション『NEMO/ニモ』のパイロット・フィルム友永和秀と共同で監督にあたり、12月に完成させる。

1985年3月16日、テレコム・アニメーションフィルムを退社してフリーに。同年6月から8月まで自然気胸入院した。

1986年1月頃、日本アニメーションに契約入社。

1987年1月、日本アニメーションを退社。同年2月1日、『火垂るの墓』準備のため、スタジオジブリに入る。引き続き宮崎や高畑の監督作品で作画スタッフとして活動する。

1989年9月11日、スタジオジブリに入社。

1995年、『耳をすませば』で監督デビュー。結果的に生涯唯一の監督作となった。

1997年作画監督を務めた『もののけ姫』が最後の参加作品となった。暮れに解離性大動脈瘤で倒れ入院。

1998年1月21日午前4時25分、死去。享年47[8]葬儀の出棺の際には『耳をすませば』の主題歌である「カントリー・ロード」が流された。次回作には灰谷健次郎小説天の瞳』のような作品を構想していたという[9]

2014年7月4日 - 8月31日、新潟県立万代島美術館にて、「新潟が生んだジブリの動画家 近藤喜文展」が開催される。その後も副題を変えて各地で開催されている[10]

宮崎駿・高畑勲との関係

前記のように、近藤は1970年代以降の宮崎駿や高畑勲の作品を作画面で支えた。

近藤は両名から高く評価されており、高畑が『火垂るの墓』、宮崎が『となりのトトロ』をそれぞれ同時に制作した時期に、両者の間で近藤の争奪戦が起こった。


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