凡例近藤 勇
近藤勇写真(1866年、国立国会図書館蔵)
時代江戸時代末期(幕末)
生誕天保5年10月5日(1834年11月5日)
死没慶応4年4月25日(1868年5月17日)[1]
改名勝五郎、勝太(幼名)、宮川勝五郎 → 嶋崎勝太 → 嶋崎勇 → 近藤勇
別名変名:大久保剛、大久保大和
戒名貫天院殿純忠誠義大居士
墓所下記参照
幕府江戸幕府
主君松平容保
藩会津藩御預新選組局長、幕臣甲陽鎮撫隊隊長
氏族宮川氏
近藤 勇(こんどう いさみ、天保5年10月5日〈1834年11月5日〉- 慶応4年4月25日〈1868年5月17日〉)は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。勇は通称で、諱は昌宜(まさよし)。慶応4年(1868年)からは大久保剛を名乗り、後にさらに大久保大和と改めた。家紋は丸の内に三つ引。天然理心流四代目宗家。 天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる[2]。幼名は勝五郎、後に勝太と改める[2]。久次郎には勝五郎のほかに、長女・リエ(天保3年(1832年)に死去)、長男・音五郎(音次郎)、次男・粂蔵(くめぞう、粂次郎、惣兵衛)がいる。ほか、祖父の源次郎がいる[3]。天保9年の上石原村の宗門人別改帳によれば、宮川家は多摩郡大沢村(三鷹市)の龍源寺の檀家で、高七石一升二合の6人家族[4]。石高から中流クラスの上層の家庭環境であったと判断される[3] 。 嘉永元年(1848年)11月11日、勝五郎は江戸牛込(東京都新宿区)に所在する天然理心流剣術道場・試衛場に入門する。勝五郎が入門した道場は「試衛館」として知られるが、多摩郡蓮光寺村(多摩市)の名主・富沢政恕日記および小島鹿之助『両雄士伝』によれば「試衛」は号で、「試衛場」と記されている[5]。 翌嘉永2年6月に目録を受ける[3]。同年10月19日には近藤周助(近藤周斎)の養子になり、周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る[3]。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。
生涯壬生寺にある近藤勇の像生家の隣にある近藤神社[注釈 1]
出生から試衛場入門