近藤光史
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こんどう みつふみ近藤 光史
戎橋南詰戎舞台にて
(2015年1月10日、今宮戎神社十日戎)
プロフィール
愛称コンちゃん
出身地 日本 岡山県岡山市
生年月日 (1947-07-12) 1947年7月12日(76歳)
最終学歴早稲田大学社会科学部
所属事務所昭和プロダクション
職歴元・毎日放送アナウンサー
元海外挙式会社経営者
活動期間1971年 - 1992年
2000年 -
配偶者なし(離婚歴4回)
出演番組・活動
出演中こんちわコンちゃんお昼ですょ!
日曜コンちゃんおはようさん
出演経歴ヤングおー!おー!
MBSヤングタウン
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ

近藤 光史(こんどう みつふみ、1947年(昭和22年)7月12日[1][2] - )は、元毎日放送アナウンサー。現在は、昭和プロダクション所属のフリーアナウンサーとして、関西を中心に活動している。身長170cm。

愛称は「コンちゃん」。出演番組などでの自己紹介で、「コンちゃん、近藤光史です」と言うことが恒例になっている。

岡山県岡山市の生まれで、2009年(平成21年)には社団法人(現・公益社団法人)岡山県観光連盟から「おかやま観光特使」、2015年(平成27年)には宮崎県から「みやざき応援大使」を委嘱されている。
来歴

岡山市生まれの大阪市阿倍野区兵庫県西宮市育ち[3]。元軍人で広畑太平工業に勤めていた父(享年60)は厳しかった。大社幼稚園、西宮市立大社小学校西宮市立大社中学校を経て、1963年(昭和38年)4月西宮市立西宮東高等学校へ第1期生として入学した。

高校時代には山岳部に所属。卒業後に学習院大学文学部へ進学したが、再受験を経て翌年に早稲田大学社会科学部へ入学した[4]。早稲田大学への入学後は、放送研究会アナウンス部からの出向扱いで、「ナレオ・ハワイアンズ」(同大学の音楽クラブに所属するハワイアンバンド)のライブ司会者として活動していた[5][6]

1971年(昭和46年)4月に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーは野村啓司(2024年3月までフリーパーソナリティ)と平松邦夫(後の大阪市長)。アナウンサーではないが、近藤同様、早稲田大学に通っていたプロデューサーの御藤良基(現在は光明寺住職)と同局およびMBSメディアホールディングス現会長の河内一友も同期生に当たる。

毎日放送への入社後は、『ヤングおー!おー!』『MBSヤングタウン』『スタジオ2時』などの公開番組や、MBSラジオの生放送番組『6時半です。おはようコンちゃん』『でんわ大好きKYU-KAN-CHO』などに出演。出演番組では、「胴間声(どうまごえ)」と自称するほどの大声での司会・フリートークなど、お笑い芸人顔負けの個性を発揮していた。

また、小池清がアナウンサー室長を務めていた1983年には、小池の依頼で先輩アナウンサー(当時)の斎藤努とともに『あどりぶランド』(局アナが全員揃って出演する日本初のテレビ番組)の企画を立案。1984年1月から同番組の放送を開始してからは、数々のキャラクター("ハジソン博士"など)を演じたり、番組恒例の時代劇企画で歴史上の人物(『水戸黄門』の格さん)に扮したりすることが多かった。1984年度のアノンシスト賞で、毎日放送アナウンサー室がグランダ・プレミオ(大賞)を受賞した企画「旧札vs新札」では、伊藤博文役を演じている。

1989年の人事異動では、アナウンス室に籍を置いたまま、毎日放送千里丘放送センターなど数カ所に分散していた同局の本社・制作機能を現在の社屋(大阪市北区茶屋町)へ集約させるための社内プロジェクト(茶屋町再開発プロジェクト)チームにも配属。やがて、チームの活動に専念するため、アナウンス室を離れた[7]。しかし、1992年(平成4年)8月、当時の妻の健康上の事情などを理由に毎日放送を退職した。

退職後は、「(毎日放送への)入社直後に出張で訪れた際に見た綺麗な海を忘れられなかった」などの理由からタヒチへ移住。現地で日本人向けの海外挙式会社を設立すると、タヒチ観光局から正式に観光業者としての登録を受けた[8]1997年3月にはニューカレドニアにも、同種の会社を立ち上げている。フランスがタヒチ近海で核実験を実施した1995年(平成7年)以降は、風評被害が観光に及ぼす影響を払拭すべく、NHKやタヒチのテレビ局のインタビューに登場。タヒチ観光局からの依頼で、日本のテレビ局に対して、観光立国タヒチの安全を訴えるPR活動を展開したこともある[9]

2000年(平成12年)9月日本へ帰国(詳細はエピソードを参照)。翌月には、MBSラジオの新番組『こんちわコンちゃん2時ですょ!』(現在の『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』)で、ラジオパーソナリティとして同局の番組に復帰した。以降は、同番組を中心に、フリーアナウンサーとして活動の幅を広げている。

2003年(平成15年)9月から半年間、『こんちわコンちゃん』と並行して、読売テレビの『情報満載 ひるまで!すっぴん!』で司会を担当。毎日放送以外の放送局の番組へ、初めてレギュラーで出演した。2007年(平成19年)1月には、「ドラマ30」シリーズの『家族善哉』(MBS制作・TBS系列)に友情出演。2009年(平成21年)9月18日には、『こんちわコンちゃん』の放送2000回到達(同年9月25日)を前に、阪神甲子園球場でのプロ野球公式戦(阪神タイガース広島東洋カープ)で人生初の始球式を経験した。『こんちわコンちゃん』の中で、学生時代走るのが速かったと自慢している。

また、『こんちわコンちゃん』の企画で、自身の作詞・歌唱による楽曲「寿(ことぶき)」のCDを製作。2010年(平成22年)12月には、同番組月曜日で共演中の大平サブロー芸能生活36年記念舞台「あかんたれ芸人の詩」に、寄席の支配人役で出演した。2009年からは、同番組とローソンコラボレーション企画で、地域・期間限定発売の食品をプロデュース。2012年(平成24年)9月1日には、自身の半生や『こんちわコンちゃん』の番組史などをまとめた初の著書『こんちわコンちゃんお昼ですょ! 夢が我が家にやってきた』(以下『夢が我が家にやってきた』と略記)を発売した。
人物

趣味は、日曜大工、機械いじり、ゴルフ釣りショッピング鉄道模型、「すきま風」(杉良太郎)を初めとするカラオケなど。鉄道模型については、現在の自宅の一角に、かつて岡山市内の実家付近を走っていた西大寺鉄道沿線の風景を特注のジオラマで再現している[10]

過去に3度の婚姻歴があったことを、『こんちわコンちゃん』などで自ら公表済み。2013年3月17日に、大平サブロー夫妻による仲人で、4度目の結婚式を挙げた[11]。4度目の結婚時に共演歴のある明石家さんまから「趣味が結婚、特技が離婚」というキツいスピーチを受けたとの事。2016年7月1日に年の差による性格の不一致などが原因で4度目の離婚となった。 

2012年3月に初孫が誕生した。
エピソード
学生時代

大学受験で上京した際に、興味本位で
劇団四季オーディションに挑戦。参加を認められたにもかかわらず、応募者が殺到した影響で自身の出番が深夜(当時宿泊していた叔母宅に通じる国鉄の最終電車出発後)まで回らないことを知ったため、待機中に自身の意思で参加を辞退した。

早稲田大時代には、当時の学生バンドブームを背景に、「『ナレオ・ハワイアンズ』の司会者」として音楽関係者に知られていた。ビリー・バンバンがメジャーデビュー曲の「白いブランコ」で大ヒットを記録した頃に共立講堂で開いたコンサートなど、「ナレオ・ハワイアンズ」以外のコンサートや音楽会でも、たびたび司会を務めている[12]

アナウンサーを志した直接のきっかけは、中・高校生時代に愛聴していた『アナウンサーコーナー』(ラジオ大阪の深夜番組)月曜日のパーソナリティで、当時同局のアナウンサーだった榎本勝敏(後に役員へ昇進)の声に憧れたことによる。近藤は後に、榎本の出身校である早稲田大学へ進学。卒業後にアナウンサーとして、ラジオ大阪へ入社することを考えていたため、榎本との面会も果たしている。その際に、近藤のキャラクターを見込んだ榎本から「在阪局のアナウンサーになりたいのなら、(ラジオ単営局の)ラジオ大阪より、君のキャラクターに合う毎日放送(当時はテレビとラジオの兼営局)を目指した方が良い」と勧められたため、毎日放送の入社試験へ臨んだ。

就職活動の時期に、当時毎日放送の系列局であったNETテレビ(現在のテレビ朝日)の視聴者参加クイズ番組(番組名不詳)で優勝。副賞に世界一周の旅行券(当時の金額で1000万円相当)を授与されたが、指定された出発日が毎日放送の入社試験と重なったことから、特例として旅行券を100万円の現金と交換した。

毎日放送アナウンサー時代

新人時代からテレビ・ラジオで数々の公開収録(または生放送)番組の司会・進行役を務めてきたこともあって、緊急時を除けば、テレビ・ラジオでストレートニュースを読む機会が他のアナウンサーに比べて少なかった
[13]

同期入社の野村・平松や、1年先輩の松井昭憲(いずれも元アナウンサー)とは、現在に至るまで親交が深い。毎日放送のアナウンサー時代には、『あどりぶランド』の実験企画「ハジソン博士」シリーズをはじめ、松井とのコンビ(コンちゃん・マッちゃん)がテレビ・ラジオを問わず人気を博した。

2018年12月まで毎日放送のアナウンサーであった水野晶子滋賀県草津市出身のフリーアナウンサー・落語家)が自己紹介などで多用する「どうせ私は草津のおんな」というキャッチフレーズは、水野が大阪テレビタレントビューロー所属の契約アナウンサーだった1980年代の前半に、当時アナウンス室での上司だった近藤が付けたという[14]

タヒチからの帰国・放送業界への復帰

毎日放送の退社直後からタヒチで暮らしていた近藤は、
2000年(平成12年)7月に、当時経営していた会社(前述)の営業活動で大阪に滞在していた。しかし、宿泊先のホテルに平松から電話がかかってきたことをきっかけに、毎日放送の本社で平松・野村・斎藤努(かつての上司で当時のアナウンス室長)と久々に再会。3人から異口同音に、「そろそろ日本へ帰って来ないか?」と勧められる。実は、この再会は、かつて近藤の出演番組でディレクターを務めた田中文夫(当時のラジオセンター長)による新番組のパーソナリティ探しの一環であった。

平松・野村・斎藤との再会直後に、田中から改めて帰国とラジオパーソナリティへの復帰の打診を受けた近藤は、タヒチで政府登録の旅行会社を経営する立場からいったん回答を保留。しかし、毎日放送時代に「負けず嫌い」の印象が強かった田中が何度も真剣に口説く姿に心を打たれたあげく、(同局アナウンサー室からの異動以来)11年振りに日本でアナウンサーとしての仕事を再開することを決意した[15]。なお、近藤が経営していた会社については、短期間での紆余曲折の末に近藤が代理社長を任命することで存続させたという[16]


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