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生誕1886年9月25日
日本・大阪府
死没 (1953-02-19) 1953年2月19日(66歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1907年 - 1945年
最終階級 海軍大将
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近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日本の海軍軍人。海兵35期首席[1]・海大17期[2]。最終階級は海軍大将。 1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる[3]。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に昇進。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する[4]。侍従武官として、皇太子や西園寺八郎とゴルフをすることもあった[5][6]。 1926年(大正15年)12月1日、第一艦隊参謀兼務連合艦隊参謀に補職される[7]。1927年(昭和2年)8月下旬、連合艦隊(司令長官・加藤寛治大将)は島根県美保関町沖合で、第一艦隊と第二艦隊の夜間演習をおこなう[8]。この時、第一水雷戦隊所属の第27駆逐隊(菱、菫、蕨、葦)を第二水雷戦隊に臨時編入し、第五戦隊(古鷹、加古、神通、那珂)と共に運用することになった[9]。第一水雷戦隊首席参謀・小沢治三郎中佐は、連合艦隊首席参謀だった近藤(戦艦「長門」座乗)を訪問[9]。指揮系統の違う部隊を、事前訓練なしに実戦方式の夜間訓練に投入する危険性を訴えたが、近藤は「高橋三吉参謀長に話してくれ」と答えた[9]。高橋は小沢の進言を却下[9]。8月24日夜間、軽巡「神通」は駆逐艦「蕨」に衝突して「蕨」は沈没して「神通」は大破、軽巡「那珂」は駆逐艦「葦」に衝突して両艦とも大破、各艦合計110名の死者と後日に水城圭次神通艦長が自決するという大惨事となった[10](美保関事件)。これ以降、小沢は近藤に不信感を抱いたとする意見もある[10]。加藤長官は近藤のことを侍従武官から来たので艦隊の実際のことはよくわからない人と評した[11]。連合艦隊参謀だった小島秀雄によれば、高橋三吉参謀長が連合艦隊を引きずりまわしており、近藤は真面目でどちらかというとおとなしかったという[11]。 1927年12月1日、海軍大佐に昇進し、海軍大学校教官に任命。生徒の横山一郎大尉から日本海軍の主力艦重視・小艦艇軽視の姿勢について質問された時、「大艦を造ってその用法を修練しておけば、小艦艇はいつでも造れるしその用法は簡単であるから、現在の日本海軍の方針は誤りが無い」と返答した[12]。当時海軍大学生だった黛治夫によれば、図上演習で審判役の学生が戦況を把握するために移動を繰り返していたため、近藤は「統監は腰掛けて動いちゃいかん」と言ったが、天覧試合ならともかく普通の演習でこんな事を言う戦術教官はだめだと思ったという[11]。野元為輝も、近藤教官に戦術を教わったが、大学校の戦術ってこんなものかと大いに不満を感じたという[11]。 1935年12月2日、軍令部第一部長に任命。松田千秋(当時軍令部一課部員)によれば、下の者は非常にやりやすかったという[11]。黛治夫(当時部員)によれば、予算に関し、黛が軍務局長・豊田副武に報告に行った後にさらに近藤が来て豊田に30分ほど説明したが、豊田は「貴様、若い者(黛)の言う通りのままで、めくら判を押して持ってきてはダメだ」と近藤を叱責し、近藤は「はい」と言って帰って行ったこともあったという[13]。海軍次官・山本五十六は新聞記者に「あの人は正直者だヨ。君達が会うのには適当だろう」と語り、近藤に取材することを薦めている[14]。記者2人が自宅を尋ねると大喜びで迎え入れて語り、杉本朝日新聞記者は山本の評判どおり「余計なことはしゃべらず話に駆け引きが無く、正直にいってくれる人」と評した[14]。 1937年12月1日、中将に昇進。1938年12月15日、第五艦隊司令長官に就任。日中戦争では海軍陸戦隊と空母「赤城」らを率いて海南島を占領した。 1939年(昭和14年)10月21日、軍令部次長に就任。1940年9月、日独伊三国同盟を締結する価値について審議された際、近藤からは対米開戦準備は1941年4月に完成すること、短期戦なら勝機があるが、長期戦だと困難であること、米国の建艦が進捗して日米海軍の比率がますます大きくなり日本は追いつけなくなり、戦争が回避できない場合は今が一番有利であることが述べられた[15]。部員だった中島親孝によれば、近藤は親独派として知られ、伏見軍令部総長宮のもとでは、部内で日独伊三国同盟締結を説き、軍令部次長から転出するまで日米関係を担当し、ここでも、その後の日独関係の影響から日米関係について部内で強く発言し、部内では戦争をやるのはやむを得ないと語っており、会議後に永野軍令部総長が「近藤くんも随分強いことを言っていたな」という意味深長なやり取りをしていた場面を聞いたという。
経歴